福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・5

2017-11-05 | 法話
・十三佛は自己曼荼羅を導く究極の密教曼荼羅であること・・5

「自己曼荼羅について」
大師の語に「夫れ仏法 遥かに非ず、心中にして則近し、真如外にあらず、身を捨てて何んか求めん」(「般若心経秘鍵」に「仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し、真如外にあらず、身を捨ていずくんぞ求めん」とあり)とあるが、本尊を壇上に安置して之を崇拝し、曼荼羅を信仰の対象として外に荘厳する所以のものは、是れ自己に具有する無尽荘厳を開顕してここに自己曼荼羅の確立を必要とするからである。大日経に「曼荼羅を図画せよ、自身を大我と為す」(大日経・入祕密漫荼羅位品第十三に「真言者誠諦、曼荼羅を図画せよ、自身を大我とし、羅字をもって諸垢を清む、瑜伽座に安住して諸の如来を尋念し、頂に諸弟子に阿字の大空点を授けよ・・」)とあるのは即ちこの自己曼荼羅である。元来自己には無限の存在がある、無限の力量がある、無尽の荘厳せられたる宝蔵がある。換言すれば自己なる者は宇宙現象の全分を有する者である。之を換言すれば自己は宇宙万象の主体である。大日経には「善男子詳らかに内心曼荼羅を聴け、秘密主よ彼の身地は即ち是れ法界の自性なり」(大日経・入祕密漫荼羅位品第十三「その時に世尊また執金剛秘密主に告げてのたまはく『善男子諦かに自心曼荼羅を聴け、秘密主かの身地は即ち是れ法界自性なり。真言密印を以てこれを加持す。・・』」)というておる。仏教の多くはこの自己の無限の権威を無我の大我と云う語に依りて表明して居るが、吾人は其の意義を明らかにするために是を自己曼荼羅と称したいのである。吾人はまず、自己を内観し、確認し、反省し、整頓し、向上し、愛撫し、享楽し、而して後はじめて外界に発展拡充すべきである。若しこの内観・反省の用意なくして自己以外に向かって其の存在を確立せんとすれば、それは木に依って魚を求むるよりも難しいのである。・・・曼荼羅は輪円具足という。いまの言葉でいえば、円満具足となる。何が円満具足しているかといえば、曼荼羅には宇宙の森羅万象が皆具足している。密教ではこの宇宙を一大人格とし見て、之を大日如来と名けるのであるが、平等観又は物質的観察より考査する場合は是を胎蔵曼荼羅と名け、差別観より考察し精神的観念より思索する場合は是を金剛界九会曼荼羅とした。秘密教が印度に成立したる当時は印度には仏教の他、バラモン教の梵天派、シバ派、ビシュヌ派の三派が存在せしのみであるから、これら三派の諸天諸神は皆この曼荼羅に網羅せらたのである。即ち信仰の対象としてはすべて信仰の対象となるべきものは皆円満具足しているのである。而してこの宇宙は無限の自己があり、無辺の自己がある。個性は自存独立せる現象で自己は独尊の個体である。神は己に似せて人を造りたるに非ずして、人は己に似せて神を造るたるのである。この意味において宇宙を人格とみる大日如来中心の曼荼羅は一転して折伏を主とする不動明王を中心とする曼荼羅となり、慈悲を体とする観音曼荼羅となり、天然現象の星供曼荼羅となり、人の血を啜る荼枳尼曼荼羅となるのである。苟も信仰の対象となりうるものは皆一曼荼羅を組織すべきである。
抑々信仰に対象を求むる所以のものは猶容を正しゅうせんとして明鏡を求むると均しく、自己を認識し、自己を向上して自己を発展せんがためである。大日経に所謂「実の如く自心を知る」(入眞言門住心品第一「云何が菩提とならば謂く、実の如く自心を知る」)ことである。即ち自己曼荼羅の開現である。然れば信仰の対象を尊重するのは自己を尊重することで、信仰の対象を崇拝するのは自心佛を崇拝することである。
胎蔵曼荼羅は中台八葉院の右は蓮華部院(観音院)・地蔵院、左に金剛手院・除蓋障院あり、前には持明院・虚空蔵院・蘇悉地院あり、後ろに佛母院・釈迦院・文殊院あり、これらの左右二重、前後三重を囲うようにして外金剛部院は存在するのである。
・・・(ここで、)官吏も実業家も・・皆各々微妙荘厳の一曼荼羅を組織し得るべきである。この自心佛の大曼荼羅を開顕して初めて自己の尊厳あり、自己の権威あり、自己の確立があるのである。然るにもし人有てこの自己曼荼羅の開顕を忘却し徒に心外の木佛・画像曼荼羅のみを鑚仰し崇拝し供養せばこれ自己を侮蔑し自心佛を誹謗したものである。文殊五字陀羅尼頌に「我若し一念を起こして我はこれ凡夫なりと云はば三佛諸仏を謗ずるに同じ、法において重罪を犯す」とある(「五字陀羅尼頌」に「或起於一念 言我是凡夫 同謗三世佛 法中結重罪」)。
(これの自己曼荼羅の確立という冨田斅純猊下の思想により猊下の創設された宝仙学園では「宇宙人格」を建学の精神とされています。ホームページに以下の様にあります。「 創立者(冨田斅純)は「人を造る」教育として「宇宙人格」を標榜しました。宇宙人格とは、人智を超える巨いなるいのちの存在を感得することにより育まれる心豊かな人格を意味します。すなわち人は自ら生きているのではなく、巨いなるいのちにより生かされている。
このことを感得することにより、慈悲や感謝の心を育み、生きる意欲を高め、豊かな人生を歩む。創立者がめざした教育は、人間の存在を思考し、そこから人間の生き方を学ぼうという教育なのです。」)自己曼荼羅を考えてみるとまず自分が凡夫から仏の導きに依って悟りへと向かう道筋を考えてみる、これは「佛の三身説」とよばれるものだが、これは修行者が凡夫から佛へと次第に自分を高めていく過程を示す曼荼羅となる。胎蔵曼荼羅は三重になっているが
第三重の最外院の外道や六道輪廻の様々な変化身の仏さまは、おろかな自分をまず仏道に近ずけてくださった、これは自分に厳しかった継母などがこれに当たると思われます。次は第二重で、ここでは自分が仏さまから修行の有難さを教わった気がします。釈迦院、これは智慧の働きをされる院です、師僧に得度していただいたのもこのお釈迦様のお導きかもしれません。地蔵院は慈悲の実践をされることろです、10代の時に境内のお地蔵様に毎日拝んで難関校に入学できたのもこの地蔵院のお陰です。除蓋障院(煩悩を断ずる、ここはまだ断じきれていません)虚空蔵院(無限の福徳授与、求聞持法を修法できたのはまさに虚空蔵菩薩様のお導きでした)文殊院(現世への具体的智慧の働き、公私にわたるさまざまな修羅場を無事乗り越えてくることが出来たのは文殊菩薩様のお知恵を頂いたからと思います)蘇悉地院(福徳を以て衆生教化、いままで遍路や求聞持法を修行できたのもここの仏さまのお導きかもしれません)。内側の初重は受用身(悟りの喜びを味わう)をあらわします。とても悟りの喜びという大それた境地には至っていませんが、初重を構成する蓮華部院は多様な慈悲を、金剛手院は智慧の種々相を、持明院は智慧と慈悲の織り成す姿を、佛母院は智慧の徳をあらわされています。逆に自身もこうして佛の様々なお陰を頂いている以上、周囲にお返ししなければなりません。中台八葉院から初重、二重、三重と外へ向かって恩を報じていく必要があります。しかし実際は全くできていませんが・・。「重々帝網なるを即身と名づく(即身成仏義)」と御大師様はおっしゃっています。冨田猊下のお言葉によれば「重々帝網なるを自己曼荼羅と名く」となりましょう。自己曼荼羅も無限の過去から無限の未来へ向かって無限の佛縁に助けられ、また空間的にも無限の人々、無限の生物、存在により支えられています、同時に支えてくれている他者もそれぞれ時間空間を越えて無限の他者に無限の過去よりささえられています。この自己曼荼羅を完成させるために十三佛様が生前も死後も通してお導きくださるということを冨田猊下はおっしゃっていると理解しました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 十三佛は金胎両部を合した究... | トップ | 今日6日から14日まで「すがも... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事