「十善戒法語の縁起」慧琳尼(注)
「ある日同じ法縁の方へ大徳(慈雲尊者)を請じまいらせけるに、通子もまゐり合いて、世にある人の命長きとみじかきと侍は如何なる事ぞやと問ひたてまつる。大徳しめし給ふに、この人間世界の色身(現実の姿)といふものは十善の姿(十善の結果)なり。高きも賎しきも、富めるも貧しきも、命ながきもみじかきも、みな過ぎ去りし世の業のかげとしるべし。前世殺生の戒行かけぬれば現世に病多くいのちみじかき、とのたまひけるに心とけ、ふみまよふ闇路にともし火の光を得たる心ちしてうれしくかしこく、此の時ぞ御佛の道のげに理に類なき事は思いしり侍りぬ。・・・小子慧琳謹記」
(注、慧琳尼、江戸中期の真言宗の尼。字は法泉,蓮心院と号す。丹波国園部藩(京都府)藩士庄林守武の娘。俗名は通子。はじめ勧修寺法親王に仕えたが,親王の得度後に法親王の近臣落合朝厚に嫁。夫の没後の宝暦12(1762)年,桃園天皇の皇后恭礼門院(富子)の命で,院の息子の伏見宮貞行親王の保母となるが,親王もわずか13歳で薨ず。親王の死を契機に慈雲尊者から十善戒を受け,安永3(1774)年6月,親王の三回忌の日に相国寺雲頂院の宗樹のもとで剃髪,天明4(1784)年3月,親王の追福のため,恭礼門院の後援で密乗山長福寺を再興し,皓月尼と共に住す。正法律を宣揚したことでも知られる。<著作>『十善法語縁起』1巻)
「ある日同じ法縁の方へ大徳(慈雲尊者)を請じまいらせけるに、通子もまゐり合いて、世にある人の命長きとみじかきと侍は如何なる事ぞやと問ひたてまつる。大徳しめし給ふに、この人間世界の色身(現実の姿)といふものは十善の姿(十善の結果)なり。高きも賎しきも、富めるも貧しきも、命ながきもみじかきも、みな過ぎ去りし世の業のかげとしるべし。前世殺生の戒行かけぬれば現世に病多くいのちみじかき、とのたまひけるに心とけ、ふみまよふ闇路にともし火の光を得たる心ちしてうれしくかしこく、此の時ぞ御佛の道のげに理に類なき事は思いしり侍りぬ。・・・小子慧琳謹記」
(注、慧琳尼、江戸中期の真言宗の尼。字は法泉,蓮心院と号す。丹波国園部藩(京都府)藩士庄林守武の娘。俗名は通子。はじめ勧修寺法親王に仕えたが,親王の得度後に法親王の近臣落合朝厚に嫁。夫の没後の宝暦12(1762)年,桃園天皇の皇后恭礼門院(富子)の命で,院の息子の伏見宮貞行親王の保母となるが,親王もわずか13歳で薨ず。親王の死を契機に慈雲尊者から十善戒を受け,安永3(1774)年6月,親王の三回忌の日に相国寺雲頂院の宗樹のもとで剃髪,天明4(1784)年3月,親王の追福のため,恭礼門院の後援で密乗山長福寺を再興し,皓月尼と共に住す。正法律を宣揚したことでも知られる。<著作>『十善法語縁起』1巻)