観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・6/15
六、内侍所の事。
抑々神鏡を内侍所と号する由来を尋ぬるに人皇六十二代村上天皇の御宇、天徳四年九月廿三日の子の刻に内裏の左衛門の陣より火出でて時節比叡山下風烈しく吹き布ひて餘煙皇居に懸かりければ主上(村上天皇)腰輿にめされ爾の御筥を御身に添へ宝剣を帯して出御なりけれども、餘に事急にて駕輿丁も無りければ、北面の下臘前後を舁き奉り上臥したる上達部六七人にて供奉し太政官へ行幸なし奉る。其の外幼稚の皇子姫宮方は御乳母いだき奉り國母皇后女院皆歩跣にて腰輿に後れ奉らじと走り出玉ひたれどもいつ習はぬ御歩行なりけるに、炎東西に充ち煙前後に掩ひければ唯御心ばかりにて一足もあゆみ得させ玉はず。倒転び玉ひけるを内侍命婦の女房漸く扶け起こし奉りて御手を引き進せ御跡を慕て落ち行き給ひけるに御足も缺損じ流るる血、地を染めて目もあてられぬ形勢(ありさま)なり。往んじ桓武天皇延暦十三年(794年)に平安城に遷されてより以来、百六十八年聖主十三代を経て未だ炎上なかりしに、かじめてかかる焼災の出来る事何なる神の御祟りぞと(菅丞相の祟り也)上下肝を冷やしけり。如法夜半の事なれば皆周章迷ひける程に代々の御重器共は多く焼失せしとかや。其の中にも三種の神寶の中に神爾と宝剣とは主上(村上帝)御身に添まいらさせたまひけるに、何なる故にか神鏡は取り落とさせたまひけり。左大臣実頼公急ぎ参内し玉ひけるに主上もはや出御なりぬ。三種の神器は如何ならせ玉ひぬらんと意もとなくて温明殿(平安京の内裏十七殿の一つ。 紫宸殿の東北、綾綺殿の東、宣陽門の内にあり、その南部を賢所とし、神鏡を安置した。 また、内侍の候所ともなっていたため内侍所ともいう)の灰燼の中より神鏡踊り出させ玉ひたるを見奉るに木印一面其の文に、天下泰平の四字あり。則ち南殿の櫻の梢に飛び掛からせ玉ひ、光明を放ちて赫奕として在しけり。実頼公泪を押へ代は未だ失せざりけりと嬉しさも貴さも弥増さり稽首蹲踞して、昔天照大神百皇を護り奉らんが為に移し留めおきたまへる御鏡なり(日本書紀の宝鏡奉斎の神勅に「吾あが児みこ、此の宝鏡を視まさむこと、当に猶吾を視るがごとくすべし。興に床を同じくし、殿を同にして、斎の鏡と為なすべし」)御誓改め玉はずんば実頼が袖に宿り入らせ玉へと祈誓を凝らしてぞをはしけるに、未だ落残りて至りける内侍の女房、実頼公に随て候ひけるが、神鏡頓て高き木末より飛び下らせ玉ひ、彼の内侍が袖に入せ玉へり。即ち包奉り彼内侍を具して主上の御在所太政官の朝所へ渡しまひらせる(ここは「大鏡」と同じ記述)。まことにかかる猛火の中に損失なかりけるこそ不思議なれ。此の神鏡と申し奉るは天照大神の御靈八咫鏡なり。即ち八葉の蓮華を形取たまふと習ひ傳ふ。昔岩戸に引き籠らせ御坐しけるとき我が形をこの神鏡に移し留めて御手(おんみずから)天忍穂耳尊(アメノオシホミミ。アマテラスの御子、地神五代の2代目。神武天皇の高祖父)に授けて宣はく、我が子孫此の寶鏡をみそなはして必ず我を見ると思へ、同殿に祝ひ奉るべしとて授け玉ひしより代々の天子剣爾と共に大殿に安置し床を同じふして坐し玉ふ。此に由りて皇居神宮差別なく宮物神物分ちなかりき。第十代崇神天皇漸く神威を畏れ玉ふに依りて神鏡寶剣を鋳改め神代の靈器を別殿に安置し奉らる。(古語拾遺に「至於磯城瑞垣崇神朝,漸畏神威,同殿不安,故更令齋部,率石凝姥神裔、天目一箇神裔二氏,更鑄鏡、造劍,以為護身御璽。是今踐祚之日所獻神璽之鏡劍也」。)今も温明殿に御在しましけるに火災を免れさせ玉ひ内侍の袖に飛び移らせ玉ひしかば、是より神鏡をば内侍所と申すとかや。今は仁壽殿に祝ひ奉りて十八日の観音供をも仁壽殿にて修し奉る。内侍所は即ち天照太神、日天子にて本地は観音なれば上一人より下万民に至まで誰か此の菩薩を信仰せざるべきや。