文永の役は「文永11年(1274)10月19日博多湾の沖に、元・高麗連合軍2万5000の兵を乗せた900隻の軍船が来襲し、翌20日早朝一斉に上陸を開始。日本軍は筑前守護少弐景資が本拠を筥崎に置き迎え撃つが元軍の集団戦法や火薬で、元軍の一方的な勝利になった。しかし元軍は陸に上がらず、海上で待機した。その夜、博多湾を吹き荒れた台風により、海上の元軍は壊滅的な打撃を蒙り退散した」とされます。
興正菩薩叡尊の自伝「金剛仏師叡尊感身学正記」には「文永五年(戊辰)六十八歳。夏終わって天王寺に参る。異国の難を払わんがため、種々の勤めを修す。今年の正月、異国の牒状到来せし故也。梵網経十重禁戒を講ず。八月十九日、平城天皇の御宇、八幡大菩薩のご託宣にて難波浦にて一百余輩同音に南無仁王護国般若波羅蜜多経一百八遍を唱えしに依り、即日住吉社頭において一百余人の長者を集め、心経を講讃す。・・」とあります。そして同書の文永十一年(戌甲)七十四歳のところでは淡々と「十月五日蒙古人対馬に著く。二十日着浪加多。即退畢りぬ。」とかいています。蒙古軍の退散の理由は台風とされていますが、八幡愚童記には「夜中に白張装束の人三千人計筥崎宮より出でて箭先を整えて射けるが、そのことがらおびただしくして身の毛竪て怖ろしく、家々の燃ゆる焔の海面に移れるを波の中より猛火燃え出でたりと見成して、蒙古肝心を迷して我先にと逃げぬ・・。我が神の徳風遠給って国家の人民煩わず、神功皇后の三韓征伐は海水を上げ、文永は猛火を出し、弘安には大風を吹かす・・」とあり、文永の役では、神々の威力で海面が火事となり蒙古が退散したとなっています。いずれにせよこのときも国中天皇陛下から庶民まで一体となって神社にお経をあげています。
翻って現在も日本を取り巻く周辺諸国の動向は予断を許しません。当時の日本の神仏一体となった護国精神を想像するに現在とは天と地ほどの差があります。
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