福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

涅槃会とお釈迦様その3

2011-02-12 | 法話
4、涅槃とは

涅槃とはなにか。
覚ったお釈迦様も死するのか?
なぜ涅槃されたのか?
涅槃の後どこにいかれたのか?
疑問はつきません。

涅槃経では、こういう疑問に対し仏が
「我、実は涅槃に入らず。たとえば母いきて他土に至る。いまだ帰らざるの間、諸子各々「母すでに死す」といふ。しかも母実には死せざるが如し・・不滅の義、不覆の義、不去不来の義、不取の義を涅槃となずく・・・大涅槃にいりて盈虚あることなし」
とおっしゃっています。
涅槃とはなくなることではないというのです。

中論観涅槃品二十五には
「もろもろの因縁を受くるがゆえに生死の中に輪転す。もろもろの因縁を受けざるを名つけて涅槃となす。如実に転倒を知らざるゆえに五受陰によりて生死に往来す。如実に転倒を知るがゆえに即ちまた五受陰によりて生死に往来せず。無性の五陰はまた相続せざるがゆえに説いて涅槃と名ずく。」
とあります。

弘法大師も
「本来不生なれば滅壊を離れたり、因を離れ、縁を離れて生もなく死もなし、無生無滅なれば終始あることなし(金剛般若経解題)」
とおっしゃっています。

ここまでくるとなんとなく分かった気になります。
その1でも述べたように、仏教学者宇井伯寿は『佛教汎論』に「涅槃、さとり、真如、心」を同じ意味としています。
つまり、我々の死も釈尊の涅槃も同じでともに真理の世界に帰ることであり、
そして、真理の世界とは、不生不滅の世界で、それは大きな全体の心の中にあるということなのでしょうか。


5、涅槃会と涅槃図
涅槃会の最初は東大寺要録に
「天平宝字五年二月十五日より(二月堂で)はじまり・・」
とあります。
天平宝字五年即ち761年に始まりました。

涅槃会参詣の功徳が今昔物語にあり、
「(冥土で閻魔様が)「汝は山階寺(興福寺)にもうでたことがあるか」と問われるので参詣の善男善女はみな涅槃会の唐花をとり冥土へ証拠としてもっていくとのことである。」
とあります。

涅槃会には涅槃図をかけますが、2様式のものがあるといわれています。
平安時代のものは釈尊が大きく描かれ会衆や動物は少ないのですが、鎌倉以降は釈尊を小さく会衆や動物を多く登場させているとのことです。
しかし、寺の数だけ涅槃図があるともいわれ、涅槃図は多種類になっていることは確かです。比較的分かりやすい涅槃図解説がインターネットにありました。http://sky.geocities.jp/stokoji2ooo/nehann/nehann.html
以上)」
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