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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その5

2020-09-10 | 法話
われわれの文化も単にシナから受け取ったばかりでなくインドからも直接に受け取っている事実、これがわれわれの文明で一番重きをなす点であると思う。そういうふうに南の方は船に依り、北の方は商隊に依り、一村一村と押して行って、シナまでは遠路であるが、行商隊がつねに往復しておった。この行商隊ぐらい確かなものはない。一村一村を押して行き、シナに着けばまた必ず一村一村を縫うて元の所に帰って行く。だからこれほど確かなことはありませぬ。ところが船の方でありますとそうはいかないので、船は幾艘も出たとしても必ずその全部が目的地に着くとは限らない、風のために妨げられることもある。またシナの海南島などは当時海賊の大将のおった所で、これに悩まされる、唐時代の海南島の首領は馮国芳(馮若芳の間違いか「法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記」に「・・・万安州に到る。州の大首領、『馮若芳』、請して其の家に住め、三日供養す。若芳、年毎に常に波斯の舶三二艘を却め取り、物を取て已が貨とし、人を掠てとす。其のの居処、南北三日に行き、東西五日に行く。村村相次で総て是れ若芳がの住処なり。若芳、客を会するに、常に乳頭香を用て燈燭と為して、一燃に一百余斤。其の宅後に、蘇芳木露積して山の如し。其の余の財物亦此称ふ。行て岸州界に到て賊無し。別駕乃ち廻り去る・・」とあり。)といっておりましたが、組織的の海賊で、ペルシャから来る船を、五艘来れば三艘取る、十艘来れば五艘とるというふうにして、全部取ってはあともう来ないから少しは残しておく大変な掠奪を恣にしたのであります。ペルシャ人を生かして住まわしめた村落が東西十里南北二里ばかりというように広いものであった。それからまたこの首領は日本に親類があって日本人の豊田という者は自分の親類であるといっておりますから、これはたぶん紀州田辺の豪族豊田丸が連絡があったものであろうと思います。豊田丸の子は弘法大師の弟子となり (『弘法大師弟子譜』の「円明伝」に伝える弟子円明の父が豊田丸でした)高野山の開創に尽力したことがある、そういうふうに海賊にも掠められ、暴風にもやられるし、船の方は案外故障が多い、盛衰があります。けれども永い間には同様勢力を及ぼしまして、終に東洋はことごとくインドの文化の勢力範囲になってしまったというふうであります。一番関係のありますのは南の海の方の道でありますからこれを今少し説明して見ようと思います。これが日本に一番関係があるのであります
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