第十一、六無畏
(ここは大日経住心品の「爾時に執金剛祕密主。佛世尊に白して言さく、願は救世者、心相を演説したまえ。菩薩は幾種の無畏處を得ること有。如是説已。摩訶毘盧遮那世尊。金剛手に告げて言く。諦に聽き極めて善く思念せよ。祕密主よ彼の愚童凡夫、諸善業を修し、不善業を害するには、當に善の無畏を得べし。若し實の如く我を知るには、當に身の無畏を得べし。若し取蘊所集の我身において、自の色像を捨てて觀ずるには、當に得無我無畏を得べし。若し蘊を害して法の攀縁に住するには、當に法無畏を得べし。若し法を害して無縁に住するには、當に法無我無畏を得べし。若し復た一切蘊界處、能執所執、我壽命等と及び法と無縁と空にして自性無性なり。此空智生ずるには、當に一切法自性平等無畏を得べし」を解説しています。)
大日経は三劫、十地の次に六無畏の法門を説いている。・・三劫は顕教から密教に帰入する次第を説いたもので、六無畏は最初から密教に帰入し曼荼羅の諸尊を本尊とし、三密加持の修行により本尊と感応道交の境に入りついに本尊と自心との主客分別を離れ、根本煩悩たる微細妄執を断じ、初地浄菩提心たる自心佛を体得せんとする道を示したもので、六無畏は如来と感応道交の秘観によって自心佛を見ようとする道を説かれたものである。・・第一、善無畏とは、悪人が善心を開発に五戒十善を修すると未来悪趣を免れると知り心にやや安穏を得る位である。真言行者でいえば、はじめて曼荼羅に入り阿闍梨から本尊の三密門を授かり本尊の三密を修する位である。第二の身無畏とは凡夫がわからいえば、この身は幾多の因縁和合によって成っており不浄であると観じて貪愛の薄らいだ位。真言行者でいえば三密行を修し、本尊の霊相を感ずる位である。第三、無我無畏とは声聞の人がこの身は五蘊の法体の和合によるもので人身に我体はないという人空の理を観ずる位である。真言行者でいうと三密修行の時、種々の霊相を感見することがあっても、本尊の加被力と行者の信念の感応の因縁によるものと知り、その自性無相であると観じ、愛執を生じない位である。第四の法無畏とは、人空の理を観ずるのみでなく、観智をもって五蘊の法体を分析し、それが空であるとの理を一分悟了するを言う。真言行者でいえば観じられるところの本尊の境界は鏡水月のように自性空であると観ずる位である。第五、法無我無畏とは十住心でいえば第六,七の住心であって、万法唯識の理を観ずるのみでなく、唯識の自体も空であると知る位である。真言行者でいえば本尊の境界は唯心所変である、その心の自体も空であるとする境地。第六、一切法平等無畏は十住心でいえば第八、九,十の住心、即ち三劫の法門である。万法は真如一心の所変で、一心と万法とは一如不二である。また一心も無相不可得であると観じ、有為無為分別の念も離れ、平等法界に住する位である。真言行者でいえば、本尊は法界身であるからわ我が身は本尊の中にある。また自分も法界身であるから本尊は我が身の中にあると観じ、本尊と自身との相対分別の念を離れ、自心は法身金剛の体である。如来大覚の体であるとの秘義を体得する位である。
三密修行の時種々の霊相を感じてもそれは本尊の加被力と行者の信念によるものと知り、その自性無性であると観じあい
(ここは大日経住心品の「爾時に執金剛祕密主。佛世尊に白して言さく、願は救世者、心相を演説したまえ。菩薩は幾種の無畏處を得ること有。如是説已。摩訶毘盧遮那世尊。金剛手に告げて言く。諦に聽き極めて善く思念せよ。祕密主よ彼の愚童凡夫、諸善業を修し、不善業を害するには、當に善の無畏を得べし。若し實の如く我を知るには、當に身の無畏を得べし。若し取蘊所集の我身において、自の色像を捨てて觀ずるには、當に得無我無畏を得べし。若し蘊を害して法の攀縁に住するには、當に法無畏を得べし。若し法を害して無縁に住するには、當に法無我無畏を得べし。若し復た一切蘊界處、能執所執、我壽命等と及び法と無縁と空にして自性無性なり。此空智生ずるには、當に一切法自性平等無畏を得べし」を解説しています。)
大日経は三劫、十地の次に六無畏の法門を説いている。・・三劫は顕教から密教に帰入する次第を説いたもので、六無畏は最初から密教に帰入し曼荼羅の諸尊を本尊とし、三密加持の修行により本尊と感応道交の境に入りついに本尊と自心との主客分別を離れ、根本煩悩たる微細妄執を断じ、初地浄菩提心たる自心佛を体得せんとする道を示したもので、六無畏は如来と感応道交の秘観によって自心佛を見ようとする道を説かれたものである。・・第一、善無畏とは、悪人が善心を開発に五戒十善を修すると未来悪趣を免れると知り心にやや安穏を得る位である。真言行者でいえば、はじめて曼荼羅に入り阿闍梨から本尊の三密門を授かり本尊の三密を修する位である。第二の身無畏とは凡夫がわからいえば、この身は幾多の因縁和合によって成っており不浄であると観じて貪愛の薄らいだ位。真言行者でいえば三密行を修し、本尊の霊相を感ずる位である。第三、無我無畏とは声聞の人がこの身は五蘊の法体の和合によるもので人身に我体はないという人空の理を観ずる位である。真言行者でいうと三密修行の時、種々の霊相を感見することがあっても、本尊の加被力と行者の信念の感応の因縁によるものと知り、その自性無相であると観じ、愛執を生じない位である。第四の法無畏とは、人空の理を観ずるのみでなく、観智をもって五蘊の法体を分析し、それが空であるとの理を一分悟了するを言う。真言行者でいえば観じられるところの本尊の境界は鏡水月のように自性空であると観ずる位である。第五、法無我無畏とは十住心でいえば第六,七の住心であって、万法唯識の理を観ずるのみでなく、唯識の自体も空であると知る位である。真言行者でいえば本尊の境界は唯心所変である、その心の自体も空であるとする境地。第六、一切法平等無畏は十住心でいえば第八、九,十の住心、即ち三劫の法門である。万法は真如一心の所変で、一心と万法とは一如不二である。また一心も無相不可得であると観じ、有為無為分別の念も離れ、平等法界に住する位である。真言行者でいえば、本尊は法界身であるからわ我が身は本尊の中にある。また自分も法界身であるから本尊は我が身の中にあると観じ、本尊と自身との相対分別の念を離れ、自心は法身金剛の体である。如来大覚の体であるとの秘義を体得する位である。
三密修行の時種々の霊相を感じてもそれは本尊の加被力と行者の信念によるものと知り、その自性無性であると観じあい