・上総國夷隅郡鴨根邨音羽山清水寺は。熊埜権現垂迹の処。圓通大士影響の山なり。本尊の彫像道場の開基は傳教大師の發願にして。慈覚大師の勲功也。京城の音羽に擬し。伽藍の製をなすものなり。
・ 人王五十代桓武天皇の御宇。延暦年中の事なるに。傳教大師台教を弘面として。東国の遊化をおもいたちたまふ。夢に一人の老翁あって告げて曰く。去ぬる宝亀年中。沙弥延鎮をして。山背の清水寺を拓しむ。其のとき我上総の國へ往。観世音霊応の地を占て。苦修錬于今三十八年。大徳若し彼の地を彼の地に至らば東国済度のために。救世の浄刹を起こしたまへ。我は是行叡居士なりと。たちまち雲に乗して東に去りたまふ。大師夢覚て切に是を慕ひ。頓て関東の方へ發錫したまふ。徧く諸国を遊歴して。まさに當國へ立ち入し時。路に惑ふて荒野に出。日も暮往来の者もなし。夜己に初更なれども。錫を掛べき木陰もなし。しかるところへ一人の樵夫。蒔を背負い明松を持ち来る。大師近寄って途を問ひたまへば。樵夫の曰く。此地は常に野干横行して。動もすれば旅人を悩すことあり。大徳は其患は非とも。今宵の露を凌ぐ計に。我陋屋へ誘引せんとす。先に立て一里程行。物寒たる住所あり。樵夫大師を延て是に入。倶に浴し倶に飲食して。其慰労こと丁寧なり。かくて夜も闌暫く居眠。夜明て見れば神の社に臥して。主の樵夫は影もみえず。大師怪みて尋ねもとむるに。鳥居に熊埜権現と題す。ここにおいて大師感涙衣を絞り。徧く山内を見行たまふに。山険しくして古木鬱茂し。渓幽ふして地勢閑寂なり。一方には東海を見臨み。社頭に泉涌瀧落て。恰も山城の音羽の景に似たり。乃し大師思¥ひらく。先の行叡居士と云るも。今此樵夫の老翁も。共に熊埜権現の所変にして。此に大悲の霊場を示ならんと。社の傍に庵を締び。単に堂舎の営構を計る。然に大師禁廷の召によって。俄に錫を京城に還し。志願の遂げざるを憾みたまふ。
・ 爾後慈覚大師の行跡を尋来たり。先の庵に居住して。手鏡千手の像を作り、一宇を構えて、是を安置市。即ち音羽山清水寺と号す。終に施無為者の連刹として。一心三観の法燈を挑ぐ。常在霊鷲の声つヾき。如法浄業の勤怠らず。是熊野権現垂迹の勝壌、傳教、慈覚両師の開基なり。
巡礼詠歌 「にごる夜に妙なる法の音羽山 聞來人の心清水。」
凡この霊場にまいるものは。大悲の慧光に照らされ。自心水の濁も澄みて。菩提の心月現はるるとなり。濁世とは。五濁悪世、劫濁乱世の時なり。妙なる法の句は、弥陀、観音、法華一体の旨をしめす。法華経方便品云。舎利弗。諸佛出於五濁惡世。所
謂劫濁煩惱濁衆生濁見濁命濁。如是舍利弗。劫濁亂時衆生垢重。慳貪嫉8妬成就諸
不善根故。諸佛以方便力。於一佛乘分別説三。
劫濁とは別体無し。四濁の盛なるを謂ふ。劫はここには時分という。其の劫末には衆生の三毒盛んになるに依って。國土に大小の三災起るなり。大の三災とは水火風なり。衆生の貪欲事に現れて水災となる。瞋恚のことに現れて火災となる。愚痴のことに現れて風災となる也。小の三災とは刀病飢なり。衆生の瞋恚はなはだしければ刀兵おこる。貪欲はなはだしければ飢饉起こる。愚痴はなはだしければ疾疫おこる。二に煩悩濁とは貪瞋癡慢疑の五なり。三に衆生濁とは元煩悩によって衆生となる。故に種々の不善をなす。三毒盛んなる故に三災を起る。三災起るが故に三毒の煩悩ますますさかんなり。是を衆生濁といふ。四に見濁とは僻見なり。断見・常見及び六十二見等なり。五命濁とは劫末にはみて。重垢の穢土を厭ひて。安楽浄土を欣ふものあらん。その人の為には五濁は善知識なり。古歌に
「厭ふべき便りと成ば世の中の憂きは中々捨てよかりけり。」
・ 神武帝三十一年辛卯。高倉下尊。自天盤船(あまのいはふね)に乗て。この秋津嶋を回り。紀州の南郊に至るに。大なる熊あり。其の長一丈余にして。金色の光を放つ。その光の中に。無量の奇瑞を現ず。尊天の告を承て。種々の霊夢を感じ。天の宝剣を得たまふ。即ち國中の邪神を伏し。くに悉く安寧なり。今神蔵(まかんのくら)の宝剣これなり。其の岩窟の花表(とりい)の額は。日本第一神蔵(まかんのくら)権現となり。このときはじめて熊埜となずけるなり。
・ 崇神天皇の御宇。無漏の郡、音無川に就いて。片辟の宮居を造る。いまの熊埜権現これなり。日本第一の霊社にして。代々の帝王渡御したまふ。白河法王五度の行幸なり。そのときの権現の神歌に「有漏よりも無漏に入ぬる道なれば、これぞ佛の御許成べき」
・ 或る人云。熊埜の本地は観自在なり。悪世の衆生を済んために垂迹和光の神と現はれ。佛法を守護したまふ。又佛眼上人と現じては。廻國巡礼の先達となり。末世の道俗を導きたまふ。故に百番の札所にも往々熊埜権現を祭る。又解脱上人熊野に詣。権現上人に告げていわく。法華経に曰「諸仏救世者。住於大神通。為悦衆生故。現無量神力」
・ 人王五十代桓武天皇の御宇。延暦年中の事なるに。傳教大師台教を弘面として。東国の遊化をおもいたちたまふ。夢に一人の老翁あって告げて曰く。去ぬる宝亀年中。沙弥延鎮をして。山背の清水寺を拓しむ。其のとき我上総の國へ往。観世音霊応の地を占て。苦修錬于今三十八年。大徳若し彼の地を彼の地に至らば東国済度のために。救世の浄刹を起こしたまへ。我は是行叡居士なりと。たちまち雲に乗して東に去りたまふ。大師夢覚て切に是を慕ひ。頓て関東の方へ發錫したまふ。徧く諸国を遊歴して。まさに當國へ立ち入し時。路に惑ふて荒野に出。日も暮往来の者もなし。夜己に初更なれども。錫を掛べき木陰もなし。しかるところへ一人の樵夫。蒔を背負い明松を持ち来る。大師近寄って途を問ひたまへば。樵夫の曰く。此地は常に野干横行して。動もすれば旅人を悩すことあり。大徳は其患は非とも。今宵の露を凌ぐ計に。我陋屋へ誘引せんとす。先に立て一里程行。物寒たる住所あり。樵夫大師を延て是に入。倶に浴し倶に飲食して。其慰労こと丁寧なり。かくて夜も闌暫く居眠。夜明て見れば神の社に臥して。主の樵夫は影もみえず。大師怪みて尋ねもとむるに。鳥居に熊埜権現と題す。ここにおいて大師感涙衣を絞り。徧く山内を見行たまふに。山険しくして古木鬱茂し。渓幽ふして地勢閑寂なり。一方には東海を見臨み。社頭に泉涌瀧落て。恰も山城の音羽の景に似たり。乃し大師思¥ひらく。先の行叡居士と云るも。今此樵夫の老翁も。共に熊埜権現の所変にして。此に大悲の霊場を示ならんと。社の傍に庵を締び。単に堂舎の営構を計る。然に大師禁廷の召によって。俄に錫を京城に還し。志願の遂げざるを憾みたまふ。
・ 爾後慈覚大師の行跡を尋来たり。先の庵に居住して。手鏡千手の像を作り、一宇を構えて、是を安置市。即ち音羽山清水寺と号す。終に施無為者の連刹として。一心三観の法燈を挑ぐ。常在霊鷲の声つヾき。如法浄業の勤怠らず。是熊野権現垂迹の勝壌、傳教、慈覚両師の開基なり。
巡礼詠歌 「にごる夜に妙なる法の音羽山 聞來人の心清水。」
凡この霊場にまいるものは。大悲の慧光に照らされ。自心水の濁も澄みて。菩提の心月現はるるとなり。濁世とは。五濁悪世、劫濁乱世の時なり。妙なる法の句は、弥陀、観音、法華一体の旨をしめす。法華経方便品云。舎利弗。諸佛出於五濁惡世。所
謂劫濁煩惱濁衆生濁見濁命濁。如是舍利弗。劫濁亂時衆生垢重。慳貪嫉8妬成就諸
不善根故。諸佛以方便力。於一佛乘分別説三。
劫濁とは別体無し。四濁の盛なるを謂ふ。劫はここには時分という。其の劫末には衆生の三毒盛んになるに依って。國土に大小の三災起るなり。大の三災とは水火風なり。衆生の貪欲事に現れて水災となる。瞋恚のことに現れて火災となる。愚痴のことに現れて風災となる也。小の三災とは刀病飢なり。衆生の瞋恚はなはだしければ刀兵おこる。貪欲はなはだしければ飢饉起こる。愚痴はなはだしければ疾疫おこる。二に煩悩濁とは貪瞋癡慢疑の五なり。三に衆生濁とは元煩悩によって衆生となる。故に種々の不善をなす。三毒盛んなる故に三災を起る。三災起るが故に三毒の煩悩ますますさかんなり。是を衆生濁といふ。四に見濁とは僻見なり。断見・常見及び六十二見等なり。五命濁とは劫末にはみて。重垢の穢土を厭ひて。安楽浄土を欣ふものあらん。その人の為には五濁は善知識なり。古歌に
「厭ふべき便りと成ば世の中の憂きは中々捨てよかりけり。」
・ 神武帝三十一年辛卯。高倉下尊。自天盤船(あまのいはふね)に乗て。この秋津嶋を回り。紀州の南郊に至るに。大なる熊あり。其の長一丈余にして。金色の光を放つ。その光の中に。無量の奇瑞を現ず。尊天の告を承て。種々の霊夢を感じ。天の宝剣を得たまふ。即ち國中の邪神を伏し。くに悉く安寧なり。今神蔵(まかんのくら)の宝剣これなり。其の岩窟の花表(とりい)の額は。日本第一神蔵(まかんのくら)権現となり。このときはじめて熊埜となずけるなり。
・ 崇神天皇の御宇。無漏の郡、音無川に就いて。片辟の宮居を造る。いまの熊埜権現これなり。日本第一の霊社にして。代々の帝王渡御したまふ。白河法王五度の行幸なり。そのときの権現の神歌に「有漏よりも無漏に入ぬる道なれば、これぞ佛の御許成べき」
・ 或る人云。熊埜の本地は観自在なり。悪世の衆生を済んために垂迹和光の神と現はれ。佛法を守護したまふ。又佛眼上人と現じては。廻國巡礼の先達となり。末世の道俗を導きたまふ。故に百番の札所にも往々熊埜権現を祭る。又解脱上人熊野に詣。権現上人に告げていわく。法華経に曰「諸仏救世者。住於大神通。為悦衆生故。現無量神力」