福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その3

2013-10-03 | 法話
着手の處

着手の處の不明な教は、如何に崇高な教でも、莊嚴な教でも、或は正大圓滿な教でも、教へらるゝ者に取つては、差當り困卻を免れぬ譯である。本來を云へば、教には着手の處の不明なものなぞが有る可き譯は無い。しかし吾人は實際其の旨意が甚だ高遠であることを感ずるが、それと同時に、漠として着手の處を見出し難いものに遭遇することが少く無い。それも歳月が立つて見ると、實は教其の物が漠として着手の處を認めしめないのではなくて、自分が或程度に達して居なかつた其の爲に、着手の處を見出し得なかつたのだと悟さとるので有るが、それは兎に角に、やゝもすると着手の處を知り得ない教に遭遇する事のあるといふ事は、誰しも實驗する事實で有るらしい。戲談ならば、論理的遊戲とも云ふべき謎のやうな教も宜いが、實際の利益を得ようといふ意で教を請ふのに、さて着手の處の分らぬ教を得たのでは實に弱る譯である。そこで問ふ者は籠耳かごみゝになつて仕舞つて、教へは聞いたには違ひ無いが何らの益をも得ずに終るといふ事も少く無い。それは聞く人にも聞かせる人にも、不本意千萬なるに相違無い。教といふものも、兎もすれば一場の座談になる傾向が有りは仕ないか。そして又所謂「籠耳」で終る傾向が有りは仕まいかと危まれるけれども、若し左樣さうで有つたならば、それは聽者にも談者にも、着手の處といふことが強く印記されて居なかつた爲として、省みなければならないので、教其の物に就て是非をす可きではないのであらう。
着手の處、着手の處と尋ねなければならぬ。播種はしゆ耕耘かううんの事を學ぶとしても、經營建築の事を學ぶとしても、操舟航海の事を學ぶとしても、軍旅行陣の事を學ぶとしても、畫を學ぶとしても、書を學ぶとしても、着手の處、着手の處と逼せり詰めて學ぶので無くては、百日過ぎてもまだ講堂の内に入らぬので有る、一年經つても實踐の域に進まぬので有る。何樣どうして心會しんゑ體得のなんのといふ境地に到り得るもので有らう。何でも彼でも着手の處を適切に知り得て、そしてそこに力を用ひ功を積んで、そしてそこから段々と進み得べきでは有るまいか。さて其樣さうならば着手の處は何どの樣なところで有らうか。それは蓋し學ぶところのもの如何によつて違ふで有らうから、今直に之を掲げ示す事は出來ぬが、一般の修養の上からならば、教ふる者に於ては敢て示せぬでは無からう。けれども着手の處、着手の處と逼せり詰めて、人々各自が其の志す所の道程に於て或點を認め出した方が妙味が有るで有らう。なんじ脚すねあり、歩むべし、、手あり、捉る可しである。
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