第六三課 智慧の説明
普通一口に「智慧」と言いますが、仏教の方では、これを二つに分け、「智」と「慧」にして、その意味にはっきりした区別をつけております(智は俗諦に関する知力、慧は真諦に関する覚力)。
私たちが生れてから物心がつき、人から教えられて箸を持つ術すべ、着物を着る術、学校通い、読み方、書き方、算術――みな「智」の方に属します。それらは誰かに教えられ、自分でも経験を積んで得られる知識だからであります。人々が成長して社会に立ち、職業を執り、友達と交際し、家庭を営んで行く、みな「智」の力であります。もし人から教えられなければ、見よう見真似で自分で工夫をする。しかしその工夫をするのも、しばしば経験を重ねてようやく得られるものであります。一口に言えば、私たちがこの世の中に処して生きて行く術、それを学び取る力が「智」であります。
この「智」は、人や書物から教えられ、また経験によって出来、不出来がありますので、時代によって違い、人によって違い、修養によって違います。つまり優劣や差別のある精神力です。たとえばむかし乗物と言えば駕籠しか知らなかったものが、今日では汽車、自動車、飛行機まで知るようになったという具合です。これは時代による「智」の相違です。また同じ人間でも甲の人は他人の身体の中の病気まで癒すが、乙の人は風邪さえ自分で癒せないで薬を貰いに行く。これが人による「智」の相違です。またAとBとは同じ野球チームの選手だが、春のシーズンには二人とも同じ打撃率だったものが、秋のシーズンになってAは安打数が増え、Bは相変らず凡打、三振を続けている。これが修養による「智」の相違です。
「智」の妙味はこういうふうに学ぶことと、経験によって違いが出来るところにあります。
さて今度は「慧」の方です。これがなかなか難しい心の能力はたらきです。一口に言うと、物の本性を見破る心の働きです。何か譬え話で説明致しましょう。
猿にらっきょをやると面白いそうです。中身がありはしないかと思ってまず最初の一皮を剥きます。やっぱり皮がある。どうも念入りな果物だと思って猿は、また一皮剥きます。やっぱり皮だ。こりゃ三枚重ねの外出向よそゆきの着物を着ている果物だ。そう思ってまた剥きます。やっぱり皮です。こんな具合に猿はらっきょの本体を突き止めようと思って、剥いて剥いて、しまいに何にもない。猿はらっきょの中身を発見しようと思って、とうとう何にもないことを発見してしまいました。
猿ばかりがそうかと思って笑うわけにはゆきません。人間にも同じようなことをした人があります。
ある生理学者が、どうかして人間の生きている源を突き止めようと堅い決心をしまして、その試験台に他人では迷惑だろうと思って、自分で自分の体を解剖して行きました。腕をつついて見ましたが、腕を少々切ったぐらいでは生命に余り関係がないことがわかりました。足を方々切って見ましたが、それで直ちに死ぬほどの大切なところがありませんでした。かくして身体中、メスで掻き廻してみまして、やっと心臓のところで、人間が生きている源を発見しかけました。そしてそれを発見すると同時に彼は死んでいました。
この愁笑に堪えない寓話は、一面、人間が生の秘密を探り当てたい欲望が死を賭けるほど強いことを物語っていると同時に、生の秘密は死の秘密と一致すること、すなわち生の秘密は、それほど神秘不可思議の世界であることを仄めかしたものであります。
古歌に次のようなのがあったと私は覚えています。
年ごとに咲くや吉野の桜花
樹を割りて見よ花のありかを
これも同じ心持ちを詠んだ歌であります。あんなに賑やかに爛漫と咲く梢の花の仕掛けは枝の中に在るのであろうか。枝を割って見ても枝の中にはない。幹に在るのであろうかと、幹を割って見ても幹の中にもない。もちろん根を掘ってみてもありません。それでいて、時節が来れば、目覚まし時計をかけて置かなくとも桜の花がちゃんと咲きます。私たち普通見慣れておりますから何ともないようなものの、よく考えて見れば不思議極まるものです。不思議がるには、何も吉野山まで汽車に乗って行って、桜の下で毛虫にびくびくしながら考え込む手数などは要りません。手近かの庭の池の鯉、軒を伝う猫などにも、不思議な生命が尾鰭を生やし、尻尾を立てて動いております。不思議な生命――。
この万物の本体、本性を突き止める心力、これを「慧」と言います。前の「智」と違って「慧」は、いずれの時代でも少しも違いがなく、またどの人にも生れつきちゃんとそなわっており、修養によって余計はっきり見出されては来ますが、「智」のように増減がありません。
以上、「智」と「慧」とを合せて「智慧」となります。これが私たち人間のあらゆる生活上の資本であります。
この現象的の見方、すなわち「智」の力と、実在的の見方、すなわち「慧」との差別をさらに説明しますと、現象的の見方は人間的であたたか味はあるが、相手に捉われやすく、実在的の見方は超人間的で冷静ではあるが生気がない。どちらも片一方だけでは世の中の万事がうまく行きません。これを調和させて、両方有効に使って行こうとするのが仏教の目的です。そして仏教を信仰し、体得することによって、この両者を兼ね備えることが出来、人間生活の真の好き運転が行われることが約束されています。