福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・・その62

2014-04-09 | 法話

第六二課 仏、菩薩は染物屋にあらず


 こんなことくらい誰でも判っていそうなもので、まだ判らない人があります。
 仏、菩薩に祈請を籠めて、その応験がないという不平であります。
 その祈請の筋を聞いてみると物を誂えるような塩梅あんばいで、時間なども気短かに区切って注文してあります。これではまるで染物屋へ物を誂えると同じ調子で、人間の思慮や力量以上の大きな了見の仏菩薩に向って頼む様子ではありません。たとえ、人間世界の馴染の染物屋でさえ、時には約束に遅れることもあるのですから、まして何千人何万人のお得意を持っている忙しい仏、菩薩なら、こういう人間並みの注文は勝手違いで、いよいよ後廻しにされるかも知れません。
 兎に角、仏、菩薩は自分より力の上の方かたと思うから頼むのですから、頼んだ以上、こちらの当て推量や短気な勝手注文よりむこうの取捌き方や始末の方が上だと思わねばなりません。自分の考えどおり運ぶようなら人間業わざで運ぶことです。何も仏、菩薩を頼むには当りません。努力勉強して切って廻し、それで出来なければ諦めるだけのことです。つまり普通の行き方です。
 ベストも尽しもしよう、人間業のあらゆる方法も講じよう。そして是非成就して貰わねば困る。諦められないことだ。その出発点から自分の力以上のものに頼むのですから、その取捌き方や始末は数倍あるいは数十百倍こちらより上だと思わねばなりません。ですから、こちらの推量どおり運ぶ事もある。しかし運ばないこともある。しかし結局の効果は必ずあることと信じて誠を捧げて行く。ここに祈請の妙味はあるのです。それで、あまり時間を切ったり、具体的な注文は、それが外れたように見ゆるとき、反対に仏、菩薩への不信を来すことになりますから余りよろしくありません。つまり染物屋式の祈請は人間以上のものに向う注文ぶりではあるまいと思います。
 偉おおきな大方針で祈請すべきではないかと思います。
 そうすれば時々刻々の現れは、善くても悪くても、それは人間の眼にちょっとそう見えるだけの話で、大きな目から見たら、いずれも目的への運歩の両足でうれしきにつけ悲しきにつけ筋は運んでいるものと、いよいよ信を捧ぐべきです。そうするときには安心の結果、持っている力も伸び伸びと使え、また、決して諦めない執拗な追求力は、仮りに仏教の信仰は迷信だとしても、これを信ずる人は普通の人間の精神力以上の程度には必ず能力を発揮して行きつつあります。まして仏教の応験なるものは絶対合理的なものですからなおさらです。「神を試みるべからず」、これは他宗の言葉としても仏教にも立派にあてはまります。なかなか妙味のある言葉です。
 仏教はもっと度量が広く、疑いつつ弥陀を念じても疑城胎宮ぎじょうたいぐ(疑いを持ちつつ念仏するものの生れる極楽浄土の辺地)といって極楽圏に対して番外当選ぐらいのところまでは行けることに、浄土教の祖師たちは説明されていますものの、疑わないに越したことはありません。それなら疑いを惹起しそうな人間のせまい了見で区切った勝手な祈請の仕方は避けた方がよかろうと思います。
 元来、仏教の最終の目的は人々が最上の智慧を開覚ひらいて最も完全な人格を完成するのに在るので、現世上の救難授福はその目的からは第二義的のものでありますが、しかし眼前の幸福は衆人が望むことでありますから、仏、菩薩においてもこれを蔑ないがしろにしないで工夫に工夫を凝らされていることはもちろんのことであります。
 しかし、どういう除災、授福を講ずる仏、菩薩の教義でも、それを講じながら最後には必ず智慧開覚、人格完成に結びつけ、導いて行くことは諸経みな一致しております。ここに仏、菩薩信仰の深い意味のあることを知らねばなりません。そして短気に浅はかにその功徳、効能をはかってはなりません。

(かの子の言うように、よく神仏を恨む人を見かけます、しかし神仏を恨んでも解決は遠のくばかりです。一度はかの子の言うようにそういう愚かな心を捨て去ることが必要でしょう。しかし凡人は「露の世は露の世ながらさりながら」という気持ちからは抜けきれません。苦悩の最中では藁をもつかむ気持ちになります。そういう時にこそ仏様になんとか助けてほしいと祈願するのが凡夫です。そしてそういうときも縋っていいぞとおしゃっているのが仏様です。新義真言宗開祖の覚鑁上人は「どのような心を起こすものが霊験や覚りをいただけるのですか?それは信心深い人です。ではどういう人を信心深いというのですか?それは久しく修行しておかげを得られなくても疑いを生ぜず、嫌になら無い人です。このような人は必ず霊験や覚りをいただけます。こういうことは或はご本尊様が拝む人を試すためであったり、或は諸天がその人の信心深さをためすためであったり、あるいはその人の宿業が深くしばらく成就してないかのごとくに見えても微かに成就しておりそれを本人が知らなかったり、あるいは魔が成就しているのを隠していたりするのです。であるから、修業・信心を怠ってはならないのです。「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心)とおしゃっています。)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佛教人生読本(岡本かの子)・... | トップ | 佛教人生読本(岡本かの子)・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事