卒業後も就職に反対されるだろうと思い、共学だったので就職ルームは殆んどの求職が男子ばかり、女子の求人は10分の1もありません。当時は学長推薦のある人から試験受けられたので、大学の成績は就職の下心もあり、殆んど「優」をとっていました。学長推薦をもらい、入社試験は受けられたものの、全国で30人の大卒女子の起用に、東京地区だけで中央大学の講堂に3000人以上の受験者がいて、外資系大企業であり、当時土日休みという会社はあまりなかったので、それにひかれて受験しましたが、合格の見込みはほとんどないと思いました。
ところがどういうわけか合格してしまいました。半年間はトレーニング期間でした。女性主任、女性係長、女性課長の姿がきびきびして格好よかったです。ところがトレーニングが始まり、私以外はほとんどの人が理系出身、総勘定元帳の作り方など経理の勉強~コンピュータ(当時は一部屋に一台の大型コンピュータでした)の2進法など、わからないことばかりで理解が遅く、毎週金曜日に、その週に学習したことの試験があり、80点以下は追試で学生時代よりずっと厳しかったです。お金をもらって勉強させてもらうのですから。多分30人中の30位だったと思います。
父は公認会計士で会計事務所をしていましたが、意地でも父に経理のことは聞きませんでした。父の反対を押し切って就職したのですから。私には向いてないから5月の連休に辞めようと思いましたが、辞めれば父の会計事務所に入れられ、父と一緒にいなければなりません。
100%やるだけやってみよう、苦手なこともできるかもしれないと思い、都心の会社まで1時間半かかりますが、往復の電車の中ではもちろん、夜遅くまで勉強しました。
今までの人生であれほど時間惜しんで勉強したことはありません。そのためか他の人と同じに理解できるようになり、トレーニングが終わる頃は仕事できるようになっていました。今でも一緒に仕事した同期入社の人達とは仲良しでずっとお付き合いが続い
ています。
あの時あきらめなくてよかったです。苦手なことも努力すればなんとかなるものだと思いました。それも父が優しくて、いやなら辞めていいよなどと言われたら、今の私はなかったかもしれません。
その後結婚、夫の転勤、子育てで退職しました。近所の子に勉強を教えてほしいと頼まれたのがきっかけで、自宅で塾をしました。30人位教えている生徒のある親から高校教員の話があり、夢だった英語の教員になることができました。
20年以上、高校と夜は中学生塾、PTA・・と本当に多忙な日々でしたが、10代の若者たちの可能性と未来を応援できるのは大きな喜びでした。高校の仕事は30年やりました。授業を1時間も手を抜かなかったのは自分の誇りです。生徒達がかわいく教えることより学ぶことのほうが多かったような気がします。生徒と先生の関係から、相性が悪いなどとは言えません。
それで全員を好きになることにしました。こちらが好きになると相手も好きになってくれます。
英語が2だった生徒が英語の先生になったり、赤点の子が保育士でがんばっていたり、自分が足をケガした時世話になったことに感激して理学療法士になった教え子、母親だけなので私立医学部に入れず4年浪人して国立大医学部に合格し、医者として活躍している子などなど・・・(続)