福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論・・その49

2023-09-18 | 諸経

また次にこのような真如三昧に入ることによって諸々の現象の根本はすべて同一であると覚ることができる。すなわち一切諸仏の本性としての法身と衆生の身とは根本において平等不二であるからその意味でこの三昧をまた一行三昧と名ずける。このように真如三昧はあらゆる三昧の根本である。若し人がこの真如三昧を修習すればあとは次々と無量の三昧を生ずるに至るのである。
三昧を修行中衆生に善根を育てる力がない時は、諸魔外道鬼神のために惑され、若しくは坐禅中に姿をあらわして恐怖せしめ、或は端正な男女の相を現わして執着心をおこさせることがある。その時も常に唯だすべたは心だけであることを念ずるべきである。そうすればそれらの誘惑の姿は則ち滅して終に惱ますことはない。また魔が、天や菩薩の姿や如來の姿ともなって仏の相好を具足して見せたり、あるいは陀羅尼を説いたり、あるいは布施・持戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説いたり、或は平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果畢竟空寂なることが是れ眞の涅槃なりと説いたりすることがある。或は行者に宿命・過去の事を知らせたり、亦た未來の事を知らせたり、他心智を得て、辯才無礙ならしめて、世間の名利の事に貪著さえたり、又た人をしてしばしば瞋り、しばしば喜ばせて情緒不安定にさせたり、或は慈愛過多・多睡・多病にさせて懈怠せしめ、或は突然精進したのちに後に突然やめるなどして、不信を生じて多疑多慮ならしめたり、或は本来の勝れた行を捨てて他の雜業を修せしめたり、若しくは世事に著して種種に束縛せしめたり、亦た能くにせのよく似た三昧を得さしめることがあるが、皆な是れらは外道のなすところであって、眞の三昧ではない。或は魔や外道は人に若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日乃ないし七日禅定を続けさせてその禅定中に自然の香美な飮食を与えて、身心を快適にさせ飢えたり渇いたりしないようにする。そして人をしてその境地に愛著させたり、或は亦た食事の分量を決めず、多くしたり少くしたりして顏色を變異せしむることがある。こういうわけだから行者は常に智慧を以て觀察して、心が邪網にかからないようにすべきである。行者は勤めて正しく念じて外境を取らず著せずすれば、則ち能く是の諸業障を遠離することができる。應に知るべきである、外道の三昧は皆な誤った見解と我執からくる。世間名利恭敬に貪著しているからである。これに対し、「眞如三昧」は主観にも客観にもこだわらない。禅定から出た後も懈慢がないため、あらゆる煩惱は次第に薄くなる。若し諸の凡夫が此の三昧法を習せなければ、如來の種性に入ることはできない。この「眞如三昧」を修習せずに他の世間の諸禪三昧を修せば多く執着心を起こし、我見によって三界に繋がれ、外道と一緒になる。それは若し善知識に護られて真如三昧を修行できれなけば則ち外道の見を起こすからである。」


(復次に如是の三昧によるが故に、則ち法界は一相なるを知る。謂く一
切諸佛の法身と衆生身とは平等無二なれば即ち一行三昧と名ずくる。當に知るべし、眞如は是れ三昧の根本なり。若し人、修行せんか漸漸に能く無量三昧を生ずればなり。或は衆生ありて善根力なきときは、則ち諸魔外道鬼神のために惑亂され、若しくは坐中に形をあらわして恐怖せしめ、或は端正男女等の相を現わさんに、當に唯心のみなることを念ずべし。境界は則ち滅して終に惱ますことを為すことなし。或は天像・菩薩像とを現わし、亦た如來像をも作して相好具足し、若しは陀羅尼を説き、若しは布施・持戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説き、或は平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果畢竟空寂なる是れ眞の涅槃なりと説き、或は人をして宿命・過去の事を知り、亦た未來の事を知り、他心智を得て、辯才無礙ならしめ、能く衆生をして世間の名利の事に貪著せしめ、又た人をして數ば瞋り、數ば喜びて性に常准なからしめ、或は多慈愛・多睡・多病にして其心をして懈怠せしめ、或は卒に精進を起こして後に便ち休廢し不信を生じて多疑多慮ならしめ、或は本の勝行を捨てて更に雜業を修せしめ、若しくは世事に著して種種に牽纒せしめ、亦た能く人をして諸の三昧の少分相似せしむるを得るも、皆な是れ外道の所得にして、眞の三昧に非ず。或は復た人をして若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日乃ないし七日定の中に住して、自然の香美なる飮食を得て、身心適悦不飢不渇。人をして愛著せしめ、或は亦た人をして食するに分齊無く、乍に多く乍に少くして顏色變異せしむ。是の義を以ての故に行者は常に應じて智慧もて觀察して、此の心を邪網に堕さしむることなかれ。當に
勤めて正念にして不取不著なれば、則ち能く是の諸業障を遠離す。應に知るべし、外道所有の三昧は皆な見愛我慢の心を離れず、世間名利恭敬に貪著する故なり。眞如三昧は見相にも住せず、得相にも住せず。乃至出定もまた無懈慢なれば、あらゆる煩惱は漸漸に微薄となる。若し諸の凡夫にして此の三昧法を習せずんば、如來種性に入るを得んこと是の處あることなし。世間の諸禪三昧を修せば多く味著を起こし、我見によりて三界に繋屬し、外道と共なるを以てなり。若し善知識に護らるることを離るときは、則ち外道の見を起こすが故に。」

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