・鶴岡八幡宮のご祭神は 応神天皇(本地、阿弥陀如来 愛染明王)・神功皇后(本地、聖観音)・比売大神(本地、大勢至菩薩 )です。
明治維新以前は鶴岡八幡宮寺と称し神仏一体の寺でした。大塔、若宮社、天神社、八幡社、大神宮、薬師堂、観音堂 法華堂、弁天堂、鐘楼、食堂、等を擁する大八幡宮寺であったといわれます。その社役を務める僧侶である供僧が、八幡宮の北西に設けた二十五の住坊(鶴岡二十五坊)にすんでいたとされます。その長は社務職別当であり顕密兼宗で、あったが幕末にはすべて真言宗系統となったということです。
総神主筥崎博尹の神奈川県庁への「御届書」に「鎌倉八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表取建、内廊三面、塀垣別紙絵図面之通修理仕候、此段御届申上候、以上 明治三午年五月」とあります。
・寒川神社は相模国一宮でした。現在の祭神は寒川比古命・寒川比女命 。本地
は薬師如来です。
「寒川神社志」に「相州一宮引着事
寒河大明神御宝殿大宮檜皮葺棟九尺間九間前葺地七尺五寸間七間後葺地同五間也 奉幣殿竪六尺間三間横二間 拝殿竪五間横三間各檜皮葺也 御供屋五間大板葺 大門檜皮葺 廻廊三十六間七尺五寸本地薬師堂七間四面葦葺也」とあります。江戸時代までは、寒川神社は別当寺(薬王寺)と供僧寺(神照寺・中之坊・三大坊と西善院)と呼ばれた真言宗寺院の僧と神主、社人が神事および仏事を執り行っていましたが、明治維新後の神仏分離令により寒川神社から西善院が独立しその折に廃絶した別当薬王寺・供僧神照寺と同中之坊、同三大坊の本尊や檀家を引き継いだということです。
明治維新以前は鶴岡八幡宮寺と称し神仏一体の寺でした。大塔、若宮社、天神社、八幡社、大神宮、薬師堂、観音堂 法華堂、弁天堂、鐘楼、食堂、等を擁する大八幡宮寺であったといわれます。その社役を務める僧侶である供僧が、八幡宮の北西に設けた二十五の住坊(鶴岡二十五坊)にすんでいたとされます。その長は社務職別当であり顕密兼宗で、あったが幕末にはすべて真言宗系統となったということです。
総神主筥崎博尹の神奈川県庁への「御届書」に「鎌倉八幡宮御社内在来之薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、鐘堂、仁王門、右混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表取建、内廊三面、塀垣別紙絵図面之通修理仕候、此段御届申上候、以上 明治三午年五月」とあります。
・寒川神社は相模国一宮でした。現在の祭神は寒川比古命・寒川比女命 。本地
は薬師如来です。
「寒川神社志」に「相州一宮引着事
寒河大明神御宝殿大宮檜皮葺棟九尺間九間前葺地七尺五寸間七間後葺地同五間也 奉幣殿竪六尺間三間横二間 拝殿竪五間横三間各檜皮葺也 御供屋五間大板葺 大門檜皮葺 廻廊三十六間七尺五寸本地薬師堂七間四面葦葺也」とあります。江戸時代までは、寒川神社は別当寺(薬王寺)と供僧寺(神照寺・中之坊・三大坊と西善院)と呼ばれた真言宗寺院の僧と神主、社人が神事および仏事を執り行っていましたが、明治維新後の神仏分離令により寒川神社から西善院が独立しその折に廃絶した別当薬王寺・供僧神照寺と同中之坊、同三大坊の本尊や檀家を引き継いだということです。