福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は聖徳太子の日です

2024-02-22 | おすすめ情報

・22日は聖徳太子の日です。太子は推古天皇30年(622年)妃・膳大郎女が2月21日に没した後を追うようにして翌22日、薨去されました。
上宮聖徳法王帝説では「二月廿二日夜半聖王薨逝也」とか「二月廿二日甲戌夜半太子崩」とあります。


・聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺では3月22日、四天王寺等では4月22日に聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているようです。

・太子は自ら『三経義疏』を著し、十七条憲法では「二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かるを直さん。」とされ日本国の基盤として佛教を置かれました。


・聖徳太子の御真言は?
聖徳太子御遺跡霊場会事務局の四天王寺に確認したところ以下のようにおしえていただきました。
1、如意輪観世音菩薩御真言「オン・バラダ・ハンドメイ・ウン」(聖徳太子は如意輪観世音を本地とするため。オン・ハンドメイ・シンダマニ・ジンバラ・ウンも可。)
に加えて
2、「南無帰命頂礼聖徳太子救世(ぐぜ)菩薩」(これは四天王寺の場合。他の寺では「南無上宮太子」など唱えることもある。ここは寺により異なる)

3、なお、数年前、河内叡福寺のご住職は三骨一廟の御陵の前で『南無日本教主聖徳法王』とお唱えになりました。

・内藤湖南は著「聖徳太子」において「今日の日本文化の基礎を作り、日本文明を建設したと謂ふ點に於ては聖徳太子以上の人は無い」として太子の隋に対する外交上の独立の気概、豪族から天皇主権をとりもどしたこと、仏教を取り入れて神仏一体で国の基礎とされたこと、をあげています。

・聖徳太子ゆかりの寺は多く、
四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺は『上宮聖徳法王帝説』等で聖徳太子が創建の七大寺と称され、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子、中之太子、下之太子と呼ばれています。
・叡福寺は師僧の寺でもあったので何度もおまいりしたことがありますが、数十年前には師僧は「ここは三骨一廟といわれている」と説明してくださいました。丘陵を利用した円墳で、中央正面に間人大妃、その前面東側に、太子、西側に菩岐々美郎女の墓が並べられています。この三骨一廟の思想は、母妃を阿弥陀、太子を救世観音、妃を勢至菩薩になぞらえているということでした。先ごろ大阪の近つ博物館で太子廟のお棺の復元を拝しましたが太子と菩岐々美郎女のお棺は漆の大きな木棺で並んでいましたが、母君間人大妃のお棺は復元されてなくて、石の土台がやはり太子・太子妃の墓とは直角に並べられていました。

・私は以前から川崎大師の聖徳太子廟には毎月お参りして「どうか中国・朝鮮半島・ロシア等の脅威に晒されながらくらげのような軟体動物のままで漂っている日本国をお救いください」とお祈りしています。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 上宮太子御記(親鸞聖人撰述) | トップ | 日本書紀に見る聖徳太子薨去... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

おすすめ情報」カテゴリの最新記事