上宮太子御記(親鸞聖人撰述)
「釈迦の正覚なしたまひし日より涅槃にいたりたまふよにいたるまで、ときたまへるところのもろもろのみのり、ひとつもまことにあらざることなし。始めには華厳を説いて解らしめたまふ。日のいでまず高峰を照らすが如し(華厳経「宝王如来性起品」に「譬えば、日出でて先づ一切の諸の大山王を照し次に一切の大山を照し、次に金剛宝山を照し、然る後、普ねく一切の大地を照す」)。つぎに阿含をのべて声聞にしらしむ。日のたかくして漸深谷をてらすがごとし。また所所にして方等の種々の経をあらわすなり。(五時八経の説では釈尊一代の説法の順を、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期に分類)。仏は一音にときたまふといえども、衆生はしなじなに随って解をうること(維摩経第一巻に「仏は一音をもって法を演説したまうに、衆生は類に随い各解を得」)一味の雨の平等にそそぐといへども草木の大小にしたごうふてうくるところおなじからざるがごとくなり(法華経薬草譬品に「一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木各差別あるが如し。」)
一十六会の中に般若の空のさとりを教て(大般若経は四処十六会で説かれている)、四十余年ののちに法華の妙道をひらきたまへり(法華経の開経とされる無量義経に「四十余年未顕真実」と書かれてある。)。鷲の峰にしてまたおもひあらわれ、鶴の林にして聲たえたまへり。迦葉は詞を鐘の音に傳(大智度論・初品總說如是我聞釋論第三に「・・是の時、大迦葉は、是の語を作し竟ると、須弥山頂に住(とど)まり、銅の揵稚を撾(う)ちて、此の偈を説いて言わく、 『仏の諸の弟子よ、若し仏を念ぜば、当に仏の恩に報ゆべし、涅槃に入る莫かれ』・・・『仏法滅せんと欲す。仏は三阿僧祇劫より、種種勤苦し衆生を慈愍して、是の法を学び得たまえり。仏、般涅槃したまえるに、諸の弟子の法を知り、法を持(たも)ち、法を誦す者は、皆、亦た仏に随いて滅度せり。法は、今にも滅せんと欲す。未来の衆生は、甚だ憐愍すべし、智慧の眼を失いて愚癡盲冥たり。仏は大慈悲もて、衆生を愍傷し、我曹は、応当に仏の教を承用して、経蔵を結集し竟るを須待し、意の随(まま)に滅度すべし』と。」)、阿難は身を鎰かぎのあなよりいれて(大智度論に阿難が第一結集に入れてもらえなかったので覚ったあと参加しようとして鍵穴から入ったという故事がある。「大迦葉の言わく、『汝の与には、門を開けず。汝は、門の鑰孔中より来たれ。』と。阿難の答えて言わく、『爾るべし。』と。即ち神力を以って、門の鑰孔中より入り、僧の足を礼拝し懺悔せり、『大迦葉、復た責めを見(あらわ)したもうこと莫かれ。』と。」)つきにえらび千人の羅漢をとどめてみなしるしをける一代の教えなり。それよりのち二十余人の聖うけ傳え、十六の大國之皇ひろめまもりたまへりき(仁王経等に十六国の王が仏の教えを聞いたとあり)。釈尊は滅したまへども教法はすでにとまり、薬をとどめて医師にわかれたるに同じ。だれか煩悩の病をのぞかざらむ。玉をかけて親友のさるににたり(法華経・五百弟子受記品の衣裏繋珠の譬)。つぎに無明の酔をさますべし。そのそも天竺の仏のあらわれて法を説きたまふ境、震旦は法つたわりて広まる国なり。ふたところをきくに仏法慚澆あはてたるところなり。震旦の貞元三年に玄奘三蔵天竺に行輪之時(貞元三年787年に玄奘は国禁を犯して密かに出国した)、鶏足山のふるきみち(鶏足山は大迦葉入定の地。大唐西域記に「高巒陗として極まりなく深壑洞として涯りなし。山麓溪澗、喬林谷を罹り、岡岑嶺嶂、繁草巌を被ふ。峻起せる三峯は傍挺絶崿、気まさに天に接せんとして形雲に同じ。その後尊者大迦葉波、中に居りて寂滅す。敢えて指言せず。故に尊者といふ。」)、竹しげりて人もかよわず、孤独園の昔の庭には室うせて僧もすまざりけり。摩竭陀國にゆきて菩提樹院をみれば、昔國王の観音の像を造れるあり。身はみな地の底に入りて肩より上よりわずかに出でたるあり。佛法滅しおわらんときにこの像いりはつべしとのたまひけり。(大唐西域記、巻八・摩竭陀國「仏が入涅槃された後に諸国の君主は仏が金剛座の大きさを説かれたのを聞き、二体の観自在菩薩像で南北の境界の記しとして東を向けて安置した。この話を老人に聞くと、『この菩薩の像の体が埋もれて見えなくなると仏の教えは滅び尽きるであろう』ということである。いまは南隅の菩薩は埋まって胸を過ぎるほどである。」)、また震旦にも聖人おおく道さかりなれども、屡乱るることあり。後周の末の代に大に魔の風をあふぎ、まさに法の灯を滅せしかば靄あい禅師の世を悲しかば身を恨みてもて命を絶つ(往生西方淨土瑞應傳・靜靄禪師第六に後周の靜靄禪師は周武帝の佛法を滅することに対し護法に無力なるを嘆いて割腹自殺した、とあり。)遠法師の道をおしみしは、王に対して罪を論ぜしなり(浄影寺慧遠は隋の僧。北周の武帝の行なった廃仏に反対した。續高僧伝巻七には「遠抗聲曰。陛下今恃王力自在。破滅三寶。是邪見人。阿鼻地獄不揀貴賤。陛下何得不怖。帝勃然作色大怒」とあります。著に「大乗義章」。)開皇(隋の文帝)のころに重てもて弘めき。大業の代(隋の煬帝)にまたもて衰へしかば、鬼泣神歎山鳴海騒。また会昌の太子多く経論を焼きしかば(唐朝の武宗期に行われた廃仏)宮の内の公卿頭を低てもてなげき、門の前の官人はなみだをながしてもて悲なり。かの貞観より三百六十余年をへだてつれば天竺をおもひやるに観音の像 入りやはて給ぬらむ。会昌より以降一百四十四年におよびぬれば大唐をおしはかるに法文の跡すくなくや成りぬらむ。あなとうと佛あひつぎたまへり。法東に流れて、さかりに我が國にとどまれり、跡をたれたる聖、昔多くあらわれて道をひろめたまふ君今朝にあひつぎたまへり。十方界にあひがたく無量劫にもききがたき大乗法典をここにしておほきく見聞すること是おぼろげの縁にあらず。法の御音は毒の鼓のごとし。一度聞くに無明のあだをころす(大般涅槃経第九「譬へば人有りて雑毒の薬を以て用て太鼓に塗り大衆の中に於いて之を撃ちて聲を発するに心に聞かんと欲することなしと雖も、之を聞くかば皆死するがごとし。・・この大乗典の大般涅槃経も亦復た是のごとく在在処処の諸の行衆の中に聲を聞くことあらんものは所有の貪欲瞋意愚痴悉く皆滅せん。・・」)。経の名は薬の木に同じ。わずかにあたるに輪廻の病を除く。このゆえにすすむるにねんごろなる志は身の皮をはぎて大乗の文典を写すべしと(大智度論にある「愛法梵志が婆羅門より法を聞いて骨をくだき皮に書け、といわれた」話)これを敬う心は口のいきをもて経巻の塵をのかざれとしめさしめたまへるなり。それ雪山童子は半偈を求めて命を捨て (『涅槃経』「聖行品」に雪山童子が羅刹から「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり)」の偈を聞き後の「生滅滅已 寂滅爲樂(生滅滅し已(おわ)りて、寂滅を楽と為す)」を聞き童子はその偈文を木にしるした後、木に登り、まっさかさまに身を投じ、我が身をもって羅刹に供養した。そのとき羅刹は帝釈天に転じ、その童子を空中で受けたとの物語がある。)、最勝仙人は一偈をねがひて身を破しなり(集一切福徳三昧経に最勝仙人のことあり。仙人に悪魔が化けた婆羅門が仏の偈を聞きたくば皮を紙に、骨を筆に、血を墨にして書写せよといい仙人がその通りにすると悪魔が化けた婆羅門は姿を消す。是と同じ話は大智度論・菩薩本生経・賢愚経にもあり)。常啼は東をこひ(『六度集経』の第 81 話、世尊が菩薩であった頃の名を常悲といった。時の世に佛なく、経典悉く尽き、沙門賢聖なきを嘆いて常に涙を流していた常悲菩薩は、或る時夢に影法無穢如来王が現れて法を説くのを聞く。大いに喜び家を棄て、妻子を棄てて深山に入り、仏を見、教えを聞かんと願うが果たせず慟哭する。そこに天人が現れ、仏には明度無極の大法があり、それを求める為に東へ行くように告げる。)善財は南を求め(華厳経で善財童子は法を求めて南へと旅する)、薬王は肘を焼き(法華経薬王品で「一切衆生喜見菩薩(薬王菩薩)は八万四千の塔の前で、自分の腕を燃やした。その火は七万二千年燃え続けた。その間、 数え切れない人びとに阿耨多羅三藐三菩提への発心を起こさせ、現一切色身三昧を得させたのである。」とあり。)普明は首をすてむとしき(「仁王般若波羅蜜經」等にある。太宰治の「走れメロス」の元になった説話ともいわれている話。「昔天竺に班足王という悪王がいて、普明王という聖王の不妄語の徳に感じて自ら悔いて仏道に入ったという因縁を述べて不妄語の美徳を讃嘆し給えるもの。昔印度で普明王という持戒堅固な王がいたが、城を出でて園に逍遥に行こうとしたとき、貧しい婆羅門が現れて王に喜捨を求めた。普明王は、逍遥から帰りにこの婆羅門に喜捨することを約して園に向かった。一方、班足王という王は外道の教えを受けて、百人の王の首を取り天に祀ることを目指していた。
あと一人の王の首を残すのみとなっていたところへ、この普明王を見つけて捕え九十九王の中に置いた。すると普明王が大泣する。訳を聞くと「我死を恐れず、甚だ信を失うことを恐れる。我うまれてこのかた妄語せず。しかるに今朝婆羅門に遇い園より帰りに喜捨することを約せしが、無常を思わざる罪、彼が心に背き自ら妄語の罪を招く、故に泣くのみ」という。班足王は「ならばこれから帰りその婆羅門に喜捨し七日のうちにかえるべし。」といって普明王を釈放する。普明王は例の婆羅門に喜捨し後継の皇太子を立てまた班足王の所へ帰ろうとした。部下は、「奇兵を置き班足王に対すれば恐れることなし」と諫めるが普明王は「実語は天に昇る梯なり。実語は小にして大なり。妄語は地獄へ落ちる。寧ろ身命を棄つとも、心に悔悟あることなし」と偈を説いて、班足王の所へ帰った。班足王は歓喜して「汝は実語の人なり。一切の人身命を惜しむ。汝は死より脱することを得て還り来たって信に赴く
、汝はこれ大人なり。」という。普明王、実語を讃嘆して曰く「実語はこれ人とす、非実語は人にあらず」と。かくのごとく種々に実語を讃じ、妄語を呵す。班足王これを聞き、身心清浄になり、普明王に告げて曰く「汝よくこれを説けり、今相放つべし。九九王もまた汝に施すべし。意に任せて本国に還るべし」と。ここにおいて百王おのおの本国へ帰ることを得たり。」)たとへ一日三度劫恒沙の身をすつとも尚仏法の一句の恩をもほうずること能わず(『摩訶止観』に、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ」)。昔床の下にて法を聞きし犬は舎衛國にうまれて聖となり(直接ではありませんが今昔物語に似た話が複数あります。『今昔物語集』巻 14-16「元興寺蓮尊、持法花経知前世報語第十六」 では蓮尊という僧が『法花経』を習っていたが普賢品だけは暗誦できなかった。ある日、彼の夢に天童が来て、「あなたの前世は犬であった。母犬と床下で『法花経』の持経者が読経しているのをきいていたが、普賢品の箇所で母犬が起き出して出ていってしまいそれについていったため普賢品を聞かなかった。前世で『法花経』を聞いたことによ り、犬の身を変えてこの世で人間の身に生まれたが普門品はそのときの因縁で覚えられない」と告げた等。)林の中にて経を聞きし鳥は忉利天に生まれて楽しみをうけき。
(賢愚経・鳥聞比丘法生天品第五十二「如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。 爾時於林樹間。有一比丘。坐禪行道。食後經行。因爾誦經。音聲清雅妙好無比。時有一鳥。敬愛其聲。飛在樹上。聽其音響。時有獵師。以箭射殺。縁茲善心。即生第二忉利天中。」)
鳥獣すらかくのごとし、いわんや人の慎みをもて聞くをや。嗚呼滅度の後、像法のころにいたりて、震旦にはじめて漢の世、明帝のとき天竺より傳(「後漢書」巻十「孝明皇帝記」に仏教の中国への初伝を「初めに帝は夢に、金人の長大にして項に日月光有るを見、以て群臣に問う。或るひと曰く、西方に神有り、その名を仏と曰う、その形は長大なりと。其の道術を問い、中国に遂りて、其の形像を図りけり」)。我國にはおそく欽明天皇の代に百済よりきたれり。我いまたなごころをあわせて世の妙なることをあらわす。昔上宮太子といふ聖いましき。用明天皇のはじめて親王にいませしとき夫人宮のうちをめぐりて厩にいたるほどに覚えずして生まれ給へるなり。おもとひとにいだかしめいそぎて寝殿にいたるほどににわかに赤き光、西よりきたりている(聖徳太子伝暦にあり)。御身甚だ香ばし。四月ののちよくもののたまふ。あくるとしの二月十五日の朝より自ら掌を合わせて東にむかひ南無佛ともふし拝みたまふ。大皇帝よろこびたまひて天下に詔をくだしたまひ、この日々には殺生をやめたまふ。八年の冬、新羅國より佛像をたてまつれり。太子申し給ふ。西國の釈迦牟尼佛の像なりと。新羅國より日羅といふ人きたれり。(百済の官吏。「日本書紀」によれば,6世紀ごろ大伴金村が百済に派遣した火葦北阿利斯登(ひのあしきたの-ありしと)の子で,百済王につかえた。敏達(びだつ)天皇12年(583)帰国し,国力増強など百済対策について進言したため,同年12月随行した百済人に殺されたという.)身に光あり。太子ひそかに身にいやしき衣を着てもろもろの童にまじりて難波の館に到りてこれをみたまふに、日羅太子をさしてあやしぶ。太子おどろきて去る。日羅地にひざまつきて掌をあわせていわく、敬禮救世観世音・傳燈東方粟散王・游於西方来誕生・皆演妙法度衆生ともふすほどに日羅おほきに身の光を放つ。太子また眉より光を放ちたまふ。また百済より弥勒の石の像をもてわたせり。時に蘇我の大臣馬子の宿祢、この像を受けたり。家の東に寺を造りて安置したてまつりて恭敬したてまつる。尼三人をすえて供養せるなり。(日本書紀敏達天皇十三年に「秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。是歲、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨國得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歲、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豐女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。」)とあり。)大臣この寺に塔をたつ。太子のたまはく、塔はこれ仏舎利のうつわものなり。釈迦如来の御舎利自然にいできたりなむと。大臣これをききて祈るに清食の飯のうえに仏舎利一粒をえたり。瑠璃のつぼにいれて塔におきておがむ。太子と大臣と意を一つにして三宝を弘む。このときに國内に病おこりて死する人大あり。大連物部の弓削の守屋と中臣の勝海(「日本書紀」によると,敏達天皇14年疫病の流行は蘇我氏の仏教信仰のためであるとして物部守屋とともに排仏を奏上。蘇我氏との抗争中の用明天皇2年4月2日舎人の迹見赤檮(とみの-いちい)に斬殺された。)とともに奏したてまつりてもうさく、我國にはもとより神をのみとうとみあがむ。しかるに蘇我の大臣仏法といふものを興しておこなふ。これによりて病世におこりて人民みなたえぬべし。これは仏法をとどめてなん人の命はのがるべきと奏す。帝皇詔してのたまはく、まうすところあきらけし、はやく仏法をたてと宣言あり(日本書紀敏達天皇の項に詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江・・・)。太子奏したまはく、二人はいまだ因果のことわりを不知なり。よきことをおこなへばさいわいいたる。あしきことをおこなへば災きたる、この二人いまかならず災にあひなむと奏したまふ。しかれども宣言ありて守屋の大連を寺につかわして堂塔をやぶり佛経を焼く。焼きのこれる仏をば難波のほりえにすてつ。三人の尼をばせめうちておいいだす。このほい雲なくて大風吹き、雨くだる。太子災いはいまおこりぬとのたまふ。この後に瘡の病世におこりてやみいたむことやきさくがごとし。ふたりの大臣ことにおもきとがにあたりて奏してもふす、臣等が病苦しみいたむことたえがたし、ねがはくは三宝にいのりたてまつらむと。また勅ありて三人の尼をめして二人の大臣をいのらしむ。また焼きし寺をあらためてつくらしめまふ。やきうせし佛経をもとめあらためて、これよりはじめてまたおこしさかへしめたまふ。太子の御父用明天皇位につきたまひぬ。二年ありてのたまはく、
我三宝に帰依しなむと思ふ。蘇我大臣仰せごとにしたがはむと奏し、法師をめして内裏にいれしなり。太子よろこびて大臣の手を取りて涙を流してのたまはく、三宝のたえなること人いまだしらぬに大臣意をよせたり、うれしくもあるかなとのたまふ。あるひとひそかに守屋の大連につげていはく、人々はかりごとをなして兵士をまふけよ、あひたすくべしといへり。守屋の大連また天皇を呪詛したてまつらむといふきこへあり。蘇我大連、太子に啓して武士をひきて守屋の大連を追。守屋また兵士をおこして城を築きふせぐ。その軍すでにこはくして御方の兵士おそりおののきて三度しりぞきかへる。このときに太子御歳十六なり。将軍の後ろに立ちて軍のつとめごとをしめす。また秦の川勝に示してのたまはく、白膠木をもて四天王の像を刻みつくらせてもとどりのうへにさし、鉾のさきにささげて願をおこしていはく、我等をして戦いに勝たしめたまへ、しからば四天王の像をあらはし塔寺をたてんといへり。大臣もまた如是願じて戦ふ。物部の守屋の大連、大いなるいちゐの木にのぼりて物部の氏の大明神をちかひて矢をはなつに太子の御あぶみにあたれり。太子また舎人迹見の赤榑(とみのいちい)におおせて四天王に祈りて矢をはなたしむ。とほく守屋の連のむねにあたりてさかさまに木よりおちぬ。その軍みだれ破れぬ。せめゆきて守屋がかうべをきりつ。家の内の資産荘園をば寺のものとなして玉造の岸の上に始めて四天王寺を建つ。これより仏法彌さかりなり。太子の御伯父舅崇峻天皇位につきたまひぬ。この御宇に太子十九歳にて冠したまふ。また太子の伯母推古天皇位につきたまへり。国の祭りごとをみな太子にまかせたまふ。百済国の使いにて阿佐といふ王子きたれり。太子を拝して言「敬禮救世大慈観世音菩薩、妙教流通東方日本国、四十九歳傳燈演説」とまふす(阿佐太子(あさたいし6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる)。太子眉間より白光を放ちたまふ。太子甲斐の国より奉れる黒駒の四つ足白きにのりて、雲に入りて東に去りぬ。舎人使(舎人の調使麿ちょうしまろ)およそ御馬の右に副へり。人々あふぎてみる。信濃の国に到りて三越の境にめぐる、(越前国、越中国、越後国の3国を三越(さんえつ)と呼ばれることがある)。三日をへてかへりたまへり。太子推古天皇の御前にして高座にのぼりて勝鬘経を講じたまふ。諸々の名僧をして義をとはしむるに時にこたふること妙なり。三日講じおはる夜、空より蓮華ふれり。華の広さは三尺、地にふりつめること四尺ばかりなり。
あくる朝に天皇みたまふてその地に寺を建つ。いまの橘寺なり。ふれる華いまもこの寺にあり。また太子小野妹子を勅使としてさきの世に衝州衝山にありしとき(思託撰の『上宮皇太子菩薩伝』に「思禅師、後ちに日本国橘豊日天皇の宮に生まる」。聖徳太子は衝山の慧恩禅師の生まれ変わりとする説は当時常識であった)、たもちたりしところの経を教えて取りにつかわす。おしえてのたまはく、赤懸の南に衝山あり、山内に般若寺あり、昔の同法はみなすでに死しおはりけむ。ただ三人ぞあらむ。吾使いと名乗りてそこに住せりしときたもてりし複せる一巻の法華経をこひてもてきたれとのたまふ。妹子わたりゆきておしえにしたがひてもていたりぬ。門に一人の沙弥ありてこれをみてすなはちいりていはく、恩禅師(太子の生まれ変わりとされる南嶽慧恩禅師)の使い来れりと告ぐ。しわおひたる老僧三人杖を突いたいて出、よろこびて使におしえて経をとらしめつ。すなはちもてたれり。太子斑鳩の宮の神殿のかたはらに舎をつくりて夢殿と名く。月に三度沐浴して入りたまふ。あくる朝に出でたまひて閻浮提のことをかたりたまふ。またこの中に入りて諸経の疏を製したまふ。あるひは七日七夜いでたまはず。戸をとじておともしたまはず。高麗の恵慧法師(推古天皇3年(595)に来日、聖徳太子の師となり、法興寺で仏法を説いた。推古天皇23年(615)帰国)のいはく、太子三度定に入りたまへり、おどろかしたてまつることなかれと。八日といふ朝に出でたまヘリ。玉机のうえに一巻の経あり。恵慈法師をしてかたらひたまはく、吾先身に衝山にありしとき、たもてりし経はこれなり。さりにしとし妹子がもてきたりしは吾弟子の経なり。三人の老僧のおさめたるところをしらずして他経をとりておくりしかば我たましひをやりてとらせるなりとのたまふ。さきの経とみあわするにこれにはなき文字一つあり。このたびの経は一巻にかけり。黄なるかみにて玉の軸なり、また百済国より僧道忻等十人来りてつかふまつる。
さきの世に衝山にして法華経を説きたまひしとき、我らは盧岳の道士として時々まひりてききし人々なり、とまふす。後のとし小野妹子また大唐にわたりて衝山にゆきたれば、さきの僧ひとりのこれりてかたりていはく、過ぎたる歳の秋、汝がくにの太子、もとはこの山の思禅師、青龍の車にのりて五百人をしたがへて東方より空をふみきたりて、ふるき臺のうちをさぐりて一巻の経をとりて雲をしのびてさりしなりといふ。この夢殿に入り給ひしほどのことなりけりと。太子の御后妃膳氏かたわらに候。太子かたりのたまはく、君吾こころの如し、一つのこともたがわず。さいわいなり。吾死なむ日は穴をおなじくしてともにうずむべしとなり。后こたへていはく、千秋萬歳、あしたゆふべにつかへむとおもふ。いかなるこころありてか、今日おはらむことをばのたまふやと。太子こたへていはく、始ある者は終あり、ものの定まれる道理なり。一度生まれて一度死ぬるは人のつねの道なり。我昔数多身をかへて仏道をおこなひつとめき、わずかに小国の太子として妙なる義を流布し、法なきところに一乗の義を説きつ。五濁悪世にひさしく遊とおもはず、とのたまふ。后涙を流して、これをうけたまはる。太子難波より都へかへりたまふ、片岡山の道の邊に餓たる人伏せり。乗りたまへる黒駒あゆまずして止まる。太子馬よりおりてかたらひたまふ。紫の上の御衣をぬぎておほひたまふ。即歌を詠じてのたまはく、
「しなてるや 片岡山に 飯いひに餓ゑて 臥こやせる その旅人たひとあはれ 親無しに 汝なれ生なりけめや さす竹の 君はや無きに 飯に餓て 臥せる 旅人あはれ」と。
飢えたる人 頭をもちあげて御辺歌をたてまつる。
「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘れめ」
太子宮にかへりたまひてののち此の人死にけり。太子かなしみたまひて葬せしめたまふ。大臣らこのことをそしる人々七人あり。めして太子のたまふ、片岡山にゆきてそのかたちをみよとなたまへば、いきみるにそのかばねなし。ひつぎのうちはなはだこうばし。みなおどろきあやしむ。太子斑鳩の宮にましまして妃にかたりたまひて沐浴し頭をあらはせ、浄衣をきせしまたふて我今夜共にさりなむとのべたまひて、床をならべて臥したまひぬ。あくるあさ日たくるまでおきたまはず。人々大殿の戸を開きてみるにともにかくれたまひけり。御かほもとのごとし。御香ことに馥し。御年四十九歳なり。おはりたまふ日、黒駒いななきよばひて草水をくはず。輿にしたがひてみささぎにいたる。一度いななきてたふれ死ぬ。そのかばねもうずむ。太子かくれたまひし日、彼の衝山よりもてわたりし経はにはかにうせぬ。今寺にある、妹子がもてきたりし経なり。新羅よりきたりし釈迦佛の像はいまに山階寺の
東の堂にあり。太子、四天王寺・法隆寺・元興寺・中宮寺・橘寺・蜂岳寺・池後寺・葛城寺・日向寺を造りたまへり。太子三の御名あり。一には厩戸の豊聡耳の皇子とまふす。王宮の厩戸のもとにて生れたまへり。十人が一度に愁を申すことをよくききて、ひとことをももらさずしてことはりたまふによりてまふすところなり。また聖徳太子とまふす。生れ給ひての御ありさま皆僧に似たまへり。勝鬘経、法華経等の経疏を製して法をひろめ、人をわたしたまふによりて聖徳とまふすなり。また上宮太子ともうす。推古天皇の御宇に太子を皇宮の南にすましめて國のまつりごとをまかせたまふによりてなり。日本記・平氏撰聖徳太子傳・上宮記・諾楽の古京薬師寺の沙門景戒の撰日本国現報善悪霊異記等にみえたるなり。
日本国三宝感通集巻第一に云、「天王寺の御朱印の縁起に曰、宝塔一基心を柱の中に籠、仏舎利毛髪をも籠めたまへりと云々。また金堂のなかに仏舎利壱参粒をおさめいれたまへりと云々。崇峻天皇元年に百済国より仏舎利を奉り日本記にいたりて霊験をあかさずと。
太子御廟の註文出現の事。
後冷泉即位第十季なり。天喜二年歳次甲午僧忠禅寶塔を起つため、削手干地、而間地中掘出一銅函、其蓋の銘に曰く、尤足称美故墓所を點じ已了。吾入滅以後四百三十余歳におよびこの記文出現哉。その時国王大臣寺塔を発起し願はくは仏法を求めんことを耳云々。内の銘にいわく、吾利生のために彼の衝山を出でこの日域に入る、守屋の邪見を降伏しついに仏法の威徳を顕し、処処において四十六箇の伽藍を造立し、千三百余の僧尼を化度し、法華・勝鬘・維摩等の大乗義疏を製記し、断悪修善の道漸く以て満足するのみ。
【松子傳太子讃】 文松子傳云、
大慈大悲本誓願 衆生を愍念すること一子の如し、是故に方便して西方より、片州に誕生して正法を興す。我身救世觀世音。定慧契女大勢至。我身を生育するは大悲母西方敎主彌陀尊。眞如眞實本一體。一體に三同一身を現ず。片城の化縁亦已に盡ぬ。西方我淨土に還歸すれども、末世諸有情を度すために、父母所生血肉身を勝地此廟崛に遺留す。三骨一廟三尊位にして過去七佛法輪の處、大乘相應功德地なり。一度參詣のものは悪趣を離れ、決定して極樂界に往生す。印度には勝鬘夫人と號し、晨旦には惠思禪師と稱す。惠文禪師・惠慈法師、太子御時師主也。思禪師御師也。佛法傳來振旦日域有三節、所謂正像末也。正法千季之間天竺流布。像法第十三季漢明帝代時、中天竺摩騰迦・竺法蘭二人聖人、佛敎負白馬來。振旦漢明帝、都西白馬寺始めて仏法を興す。後經四百八十餘年、大日本國第三十主欽明天皇代、百濟國聖明王、佛像經卷等献我朝王。像法に入ること五百歳也。
【親鸞書寫す】正嘉元歳丁巳五月十一日書寫之 愚禿親鸞 八十五歳
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