接スルレ物ニ宜クレ從フレ厚キニ
物に接する宜しく厚きに從ふべしといふのは黄山谷の詩の句である。人は心を存する須らく温なるべきである。
人の性情も多種である。人の境遇も多樣である。其の多樣の性情が、多樣の境遇に會ふのであるから、人の一時の思想や言説や行爲も亦實に千態萬状であつて、本人と雖も豫想し逆賭する能はざるものが有るのは、聖賢にあらざるより以上は免れざるところである。それであるから人の一時の所思や所言や所爲を捉へて、其の人全體なるかの如くに論議し評隲ひやうしつするのは、本より其の當を得たことでは無い。併し是を是とし非を非とすることを不當だとすべき理由は、亦復また更に之無かるべきところのことに屬する。故に是を是とし非を非とするのも亦實は閑事で、物言へば脣寒し秋の風であるといふ一見解は姑く擱きて取らずとして、差支は無いが、こゝに當面の是を是とせずして非とし、非を非とせずして是とするが如きが有つたならば如何であらう。其の人の性情境遇が然らしめたることにせよ、之を可なりとすることは斷じて出來ないのである。況んや其の性情拗戻辛辣にして、自ら轗軻蹉躓、百事不如意の境遇を招致し、而して不平鬱勃、渇虎餓狼の如き状に在るものの、詭激側仄の感情より生じたる論議評隲に於てをやである。其の齒牙にかくるに足らざるは勿論である。隨つて之を酷排峻斥せざる可からざるも亦勿論である。性癖は如何とも爲し難いにせよ、人は成るべく『やはらかみ』と『あたゝかみ』とを有したいものである。假にも助長の作用を爲して、剋殺の作用を爲したく無いものである。
近く譬喩たとへを設けて之を説かうか。人は皆容易に予の意を領得するで有らう。助長とは讀んで字の如しで助け長ずるのである。剋殺は剋し殺すのである。茲に一の牽牛花あさがほの苗が地を抽いたと假定すると、之に適度の量の不寒不熱の水を與へ、或は淤泥、或は腐魚、或は糠秕、或は燐酸石灰等の肥料を與へ、其の蔓をして依つて以て纒繞せしむ可き竹條葭幹等を與へて之を扶殖して地に偃ふすこと無からしめ、丁寧に其の蠹※(「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34)とがを去るが如きは、即ち助長である。故無くして其の芽を摘み去り、其の葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)り取り、其の幹莖を蹂躪して地に委せしめ、瓦礫を投與して傷夷せしむるが如きは、剋殺である。牛馬犬豚の如きものに對しても、之を愛育し長成せしむるは助長である。草木禽獸に對してのみならず、一机一碗一匣一劔に對しても、助長剋殺の作用は有るのであつて、之を撫摩愛玩すれば、桑の机なら、其の机は漸くにして桑の特質たる褐色の美澤を増進し來つて、最初のたゞ淡黄色たりし時よりは其の優麗を加ふるものであり、樂燒の碗ならば、其の碗は漸くにして粗鬆のところも手に觸れて不快の感を起さしめざるを致し、黒漆の匣ならば、其の匣は漸くにして漆の愛す可からざる異臭も亡せ浮光も去り、賞す可き古色を帶ぶるに至り、劔は又其の拂拭を懈らざれば、其の利を加へざるまでも、其の鋭を保つて、※(「金+肅」)花しうくわの慘を受くるに至らざるものである。凡そ是の如きは皆助長の作用である。之に反して机をば汚して拭はず。或は刀※(「金+纔のつくり」)し錐穿して之を傷つけて顧みず、碗には垢膩こうじ滓渣さいさを附して洗はず、或は之を衝撃して、玉瑕氷裂の醜を與へ、匣をば毀損し、劔をば銹花滿面ならしむるが如きは、剋殺の作用である。古人の妙墨蹟好畫幅等に對しても亦然りで、片紙斷簡を將に廢せんとするに拯すくひて、之を新裝し再蘇せしむるが如きは助長であり、心無く塵埃堆裏に抛置し、鼠牙(そが)※殘(しゆざん)の禍を蒙らしめ、雨淋火爛の難を受けしむるが如きは剋殺である。
上擧の例に照らせば、不言の裏に予が意は自ら明らかであるが、之はまさに一切の美なるもの用有るものに對しては助長の念を懷くべく、決して剋殺の事をなすべからざるものである。助長を意とする人の周圍には、花は美しく笑ふべく、鳥は高らかに歌ふべく、羊は肥え馬は逞しかるべく、器物什具は優麗雅潔の觀を呈すべき情勢が有るが、之に反して剋殺を忌まざる人の周圍には、花も萎み枯れ、鳥も來り啼かず、羊痩せ馬衰へ、鼎は脚を折りて倒れ、弓は膠を脱して裂け、缺脣の罌あう、沒耳の鐺たう、雜然紛然として亂堆歪列すべき情勢がある。
人の性情は多種であるからして、自ら無意識的に剋殺の作用を敢てして憚からざるもの有り、而して人未だ必らずしも狂妄放漫の人ならざるも有るのであるが、其は蓋し幼時の庭訓之をして然らしめたもので、其の習慣其の人を累するには足らざるにせよ、其の習慣が決して其の人を幸福にするとは云ふべからざるものである。世にはまた一種拗戻偏僻の性質よりして、好んで剋殺の作用をなし、朱を名畫に加へ、指を寶器に彈ずるが如きことを敢てして、而も意氣は昂々、眼角は稜々、以て自ら傲おごるものも有るが、此等は眞に妄人癡物といふべきものである。何等の自ら益するところも無きのみならず、實に人を傷つけ世を害するものであつて、是の如き人に因つて吾人は如何に多大の損害を被つて居るか知れぬのである。雪舟は唯一人であり、乾山は只一人であるが、雪舟の畫を破り棄つる人乾山の皿を毀損する人は、何十人何百人何千人なりとも有り得る數理で有るから、剋殺を憚からぬ人ほど實に無價値なるものは世に無いのである。哲學的に論じたならば、剋殺も亦造化の一作用であるから、剋殺を敢てして憚からざる人も、亦造化の作用を助けて居るには相違無い。是の如きの人有つて、來者の爲に路を開くのであると論ずれば、論じ得られないのでは無いが、それは超人的の論議であつて、實際の社會とは懸絶して居るのである。美なるもの、用あるものを毀傷殘害するよりほかに能力無き人ほど憫むべく哀むべき人は復無いのである。人應まさに助長を意とすべし、剋殺を憚からざる勿れである。
以上は動植器物に對しての言であるが、予の言はんとする本意は庶物に對してでは無い。實に人の惡しからざる思想や言語や行爲に對して、妄りに剋殺的の思想や言語や行爲をなさずして、助長を意とせざる可からずと思ふからである。
こゝに人ありて或一事を爲さんことを欲すと假定せんに、其の事にして若くは不良なり、若くは兇惡なり、若くは狂妄なりとすれば則ち已む、苟も然らざる以上は、之を助長して其の志を成し其の功を遂げしむるも亦可ならずやである。たとひ我之を助長するを好まざるまでも、何で傍より之を剋殺して、其の志の成らず其の功を遂げざるを望むが如き擧に出づるを要せんやである。然るに世おのづから矯激詭異の思想を懷き、言語を弄し、行爲を敢てする一種の人ありて、是を是とし非を非とする以上に、不是を是とし、不非を非とし、以て快を一事に縱にするが如き擧に出づるものがあるは悲しむべきことである。人或は是の如きものは世に存する無しと云ふで有らうが、實際は動植器物に對しても助長を意とせず、剋殺を憚からざる人の少くないやうに、人の善や人の美に對しても、之を助け、之を濟さうとするものは、比較的に少く、之を毀損し之を傷害しようとするものは決して少く無い。
過日の事であつたが、予は山の手の名を知らざる一小坂路に於いて、移居の荷物を運搬する一車の、積荷重くして人力足らず、加ふるに、道路澁惡にして上るを難んずるを目撃した。時に坂下より相伴なひ來りし二人の學生の、其の一人は之を見るに忍びずして、進んで車後より力を假して之を推したるが爲に、車は辛うじて上らんとして動いたのである。然るに他の一人は聲高く之を冷罵して、「止めい、陰徳家よ」と叫んだので、車を推した學生は手を離して駈け拔けて仕舞つて、既に車より前に進んで居た冷罵者に追ひ及んで、前の如く相竝んで坂を上つたのである。車夫は忽然として助力者を失つた爲に、急に後へ引戻され、事態甚だ危險の觀を呈したが、幸に後より來りし二人が有つて、突差に力を假した爲に事無きを得た。併し予は坂上より差掛つて此の状を見て、思はず膽を冷し心を寒うしたのであつた。
此の事は眞に一瑣事で語るを値しないので有るが、此に類した事情は世に甚だ少く無いのである。一青年が力を假し車を推したのは、所謂惻隱の心とでも云はうか、仁恕の心とでも云はうか、何にせよ或心の發動現象で有つて、儒家者流に之を賞美するには値せずとするも、其の行爲たるや決して不良でも無く、兇惡でも無い。予をして言はしむれば、他の一青年が其の心の發動に對して剋殺的の言語を出すには及ばぬことである。否、むしろ助長的の意義ある言語を出して其の心の發動を遂げしめても可であり、又其の學生も協力して勞を分ちて不可無きことと思ふ。然るに冷罵を加へて、※なんぢ[#「にんべん+(人がしら/小)」何ぞ自ら欺くやと云はぬばかりに刺笑したるが爲に、一青年の心は牽牛花あさがほの苗の只一足に蹂躪されたるが如く、忽然として其の力を失ひ、突如として車を捨てて走るに至つたのである。之を目にしたる予は、後に至りて之を思ひ之を味はひて、一種愴然たる感を得た。吾人も亦時に彼の冷罵を加へたる青年の如き擧動を無意識の間に爲すことが無いには限らぬ。そして其の爲に自他に取りて何等の幸福をも來さずして、卻つて幾干かの不幸福を自他に貽おくりて居ることが無いには限らぬと思はずには居られ無かつた。
動植器物の愛すべく用ふべきに對して、毀損剋殺を敢てしてはならぬことは自明の道理である。人の善を成し美を濟なすことに於ても、亦助長的態度に出でねばならぬことも自明の道理である。他人の宗教を奉ぜんとするに會へば、之を嘲笑するは科學を悦ぶものの免れざるところであり、他人の科學を尊信するを見れば、之を罵詈するは宗教を悦ぶものの免れざるところである。併し人の性情は多種であり、人の境遇は多樣である。自己の是とするところのみを是とせば、天下は是ならざるものの多きに堪へざらんとするのである。故に苟も不良で無く、凶惡で無く、狂妄で無い限りは、人の思想や言説や行爲に對しては、苟も剋殺的で無く、助長的で有つて然る可きである。況んや多く剋殺的なるは、其の人の性情の拗戻偏僻なると、境遇の不滿なるとに基因する傾向の、實際世界に於て甚だ明白に認識せらるゝあるをや、と云ふも蓋し大なる誤謬では無いのである。
物に接する宜しく厚きに從ふべしといふのは黄山谷の詩の句である。人は心を存する須らく温なるべきである。
人の性情も多種である。人の境遇も多樣である。其の多樣の性情が、多樣の境遇に會ふのであるから、人の一時の思想や言説や行爲も亦實に千態萬状であつて、本人と雖も豫想し逆賭する能はざるものが有るのは、聖賢にあらざるより以上は免れざるところである。それであるから人の一時の所思や所言や所爲を捉へて、其の人全體なるかの如くに論議し評隲ひやうしつするのは、本より其の當を得たことでは無い。併し是を是とし非を非とすることを不當だとすべき理由は、亦復また更に之無かるべきところのことに屬する。故に是を是とし非を非とするのも亦實は閑事で、物言へば脣寒し秋の風であるといふ一見解は姑く擱きて取らずとして、差支は無いが、こゝに當面の是を是とせずして非とし、非を非とせずして是とするが如きが有つたならば如何であらう。其の人の性情境遇が然らしめたることにせよ、之を可なりとすることは斷じて出來ないのである。況んや其の性情拗戻辛辣にして、自ら轗軻蹉躓、百事不如意の境遇を招致し、而して不平鬱勃、渇虎餓狼の如き状に在るものの、詭激側仄の感情より生じたる論議評隲に於てをやである。其の齒牙にかくるに足らざるは勿論である。隨つて之を酷排峻斥せざる可からざるも亦勿論である。性癖は如何とも爲し難いにせよ、人は成るべく『やはらかみ』と『あたゝかみ』とを有したいものである。假にも助長の作用を爲して、剋殺の作用を爲したく無いものである。
近く譬喩たとへを設けて之を説かうか。人は皆容易に予の意を領得するで有らう。助長とは讀んで字の如しで助け長ずるのである。剋殺は剋し殺すのである。茲に一の牽牛花あさがほの苗が地を抽いたと假定すると、之に適度の量の不寒不熱の水を與へ、或は淤泥、或は腐魚、或は糠秕、或は燐酸石灰等の肥料を與へ、其の蔓をして依つて以て纒繞せしむ可き竹條葭幹等を與へて之を扶殖して地に偃ふすこと無からしめ、丁寧に其の蠹※(「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34)とがを去るが如きは、即ち助長である。故無くして其の芽を摘み去り、其の葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)り取り、其の幹莖を蹂躪して地に委せしめ、瓦礫を投與して傷夷せしむるが如きは、剋殺である。牛馬犬豚の如きものに對しても、之を愛育し長成せしむるは助長である。草木禽獸に對してのみならず、一机一碗一匣一劔に對しても、助長剋殺の作用は有るのであつて、之を撫摩愛玩すれば、桑の机なら、其の机は漸くにして桑の特質たる褐色の美澤を増進し來つて、最初のたゞ淡黄色たりし時よりは其の優麗を加ふるものであり、樂燒の碗ならば、其の碗は漸くにして粗鬆のところも手に觸れて不快の感を起さしめざるを致し、黒漆の匣ならば、其の匣は漸くにして漆の愛す可からざる異臭も亡せ浮光も去り、賞す可き古色を帶ぶるに至り、劔は又其の拂拭を懈らざれば、其の利を加へざるまでも、其の鋭を保つて、※(「金+肅」)花しうくわの慘を受くるに至らざるものである。凡そ是の如きは皆助長の作用である。之に反して机をば汚して拭はず。或は刀※(「金+纔のつくり」)し錐穿して之を傷つけて顧みず、碗には垢膩こうじ滓渣さいさを附して洗はず、或は之を衝撃して、玉瑕氷裂の醜を與へ、匣をば毀損し、劔をば銹花滿面ならしむるが如きは、剋殺の作用である。古人の妙墨蹟好畫幅等に對しても亦然りで、片紙斷簡を將に廢せんとするに拯すくひて、之を新裝し再蘇せしむるが如きは助長であり、心無く塵埃堆裏に抛置し、鼠牙(そが)※殘(しゆざん)の禍を蒙らしめ、雨淋火爛の難を受けしむるが如きは剋殺である。
上擧の例に照らせば、不言の裏に予が意は自ら明らかであるが、之はまさに一切の美なるもの用有るものに對しては助長の念を懷くべく、決して剋殺の事をなすべからざるものである。助長を意とする人の周圍には、花は美しく笑ふべく、鳥は高らかに歌ふべく、羊は肥え馬は逞しかるべく、器物什具は優麗雅潔の觀を呈すべき情勢が有るが、之に反して剋殺を忌まざる人の周圍には、花も萎み枯れ、鳥も來り啼かず、羊痩せ馬衰へ、鼎は脚を折りて倒れ、弓は膠を脱して裂け、缺脣の罌あう、沒耳の鐺たう、雜然紛然として亂堆歪列すべき情勢がある。
人の性情は多種であるからして、自ら無意識的に剋殺の作用を敢てして憚からざるもの有り、而して人未だ必らずしも狂妄放漫の人ならざるも有るのであるが、其は蓋し幼時の庭訓之をして然らしめたもので、其の習慣其の人を累するには足らざるにせよ、其の習慣が決して其の人を幸福にするとは云ふべからざるものである。世にはまた一種拗戻偏僻の性質よりして、好んで剋殺の作用をなし、朱を名畫に加へ、指を寶器に彈ずるが如きことを敢てして、而も意氣は昂々、眼角は稜々、以て自ら傲おごるものも有るが、此等は眞に妄人癡物といふべきものである。何等の自ら益するところも無きのみならず、實に人を傷つけ世を害するものであつて、是の如き人に因つて吾人は如何に多大の損害を被つて居るか知れぬのである。雪舟は唯一人であり、乾山は只一人であるが、雪舟の畫を破り棄つる人乾山の皿を毀損する人は、何十人何百人何千人なりとも有り得る數理で有るから、剋殺を憚からぬ人ほど實に無價値なるものは世に無いのである。哲學的に論じたならば、剋殺も亦造化の一作用であるから、剋殺を敢てして憚からざる人も、亦造化の作用を助けて居るには相違無い。是の如きの人有つて、來者の爲に路を開くのであると論ずれば、論じ得られないのでは無いが、それは超人的の論議であつて、實際の社會とは懸絶して居るのである。美なるもの、用あるものを毀傷殘害するよりほかに能力無き人ほど憫むべく哀むべき人は復無いのである。人應まさに助長を意とすべし、剋殺を憚からざる勿れである。
以上は動植器物に對しての言であるが、予の言はんとする本意は庶物に對してでは無い。實に人の惡しからざる思想や言語や行爲に對して、妄りに剋殺的の思想や言語や行爲をなさずして、助長を意とせざる可からずと思ふからである。
こゝに人ありて或一事を爲さんことを欲すと假定せんに、其の事にして若くは不良なり、若くは兇惡なり、若くは狂妄なりとすれば則ち已む、苟も然らざる以上は、之を助長して其の志を成し其の功を遂げしむるも亦可ならずやである。たとひ我之を助長するを好まざるまでも、何で傍より之を剋殺して、其の志の成らず其の功を遂げざるを望むが如き擧に出づるを要せんやである。然るに世おのづから矯激詭異の思想を懷き、言語を弄し、行爲を敢てする一種の人ありて、是を是とし非を非とする以上に、不是を是とし、不非を非とし、以て快を一事に縱にするが如き擧に出づるものがあるは悲しむべきことである。人或は是の如きものは世に存する無しと云ふで有らうが、實際は動植器物に對しても助長を意とせず、剋殺を憚からざる人の少くないやうに、人の善や人の美に對しても、之を助け、之を濟さうとするものは、比較的に少く、之を毀損し之を傷害しようとするものは決して少く無い。
過日の事であつたが、予は山の手の名を知らざる一小坂路に於いて、移居の荷物を運搬する一車の、積荷重くして人力足らず、加ふるに、道路澁惡にして上るを難んずるを目撃した。時に坂下より相伴なひ來りし二人の學生の、其の一人は之を見るに忍びずして、進んで車後より力を假して之を推したるが爲に、車は辛うじて上らんとして動いたのである。然るに他の一人は聲高く之を冷罵して、「止めい、陰徳家よ」と叫んだので、車を推した學生は手を離して駈け拔けて仕舞つて、既に車より前に進んで居た冷罵者に追ひ及んで、前の如く相竝んで坂を上つたのである。車夫は忽然として助力者を失つた爲に、急に後へ引戻され、事態甚だ危險の觀を呈したが、幸に後より來りし二人が有つて、突差に力を假した爲に事無きを得た。併し予は坂上より差掛つて此の状を見て、思はず膽を冷し心を寒うしたのであつた。
此の事は眞に一瑣事で語るを値しないので有るが、此に類した事情は世に甚だ少く無いのである。一青年が力を假し車を推したのは、所謂惻隱の心とでも云はうか、仁恕の心とでも云はうか、何にせよ或心の發動現象で有つて、儒家者流に之を賞美するには値せずとするも、其の行爲たるや決して不良でも無く、兇惡でも無い。予をして言はしむれば、他の一青年が其の心の發動に對して剋殺的の言語を出すには及ばぬことである。否、むしろ助長的の意義ある言語を出して其の心の發動を遂げしめても可であり、又其の學生も協力して勞を分ちて不可無きことと思ふ。然るに冷罵を加へて、※なんぢ[#「にんべん+(人がしら/小)」何ぞ自ら欺くやと云はぬばかりに刺笑したるが爲に、一青年の心は牽牛花あさがほの苗の只一足に蹂躪されたるが如く、忽然として其の力を失ひ、突如として車を捨てて走るに至つたのである。之を目にしたる予は、後に至りて之を思ひ之を味はひて、一種愴然たる感を得た。吾人も亦時に彼の冷罵を加へたる青年の如き擧動を無意識の間に爲すことが無いには限らぬ。そして其の爲に自他に取りて何等の幸福をも來さずして、卻つて幾干かの不幸福を自他に貽おくりて居ることが無いには限らぬと思はずには居られ無かつた。
動植器物の愛すべく用ふべきに對して、毀損剋殺を敢てしてはならぬことは自明の道理である。人の善を成し美を濟なすことに於ても、亦助長的態度に出でねばならぬことも自明の道理である。他人の宗教を奉ぜんとするに會へば、之を嘲笑するは科學を悦ぶものの免れざるところであり、他人の科學を尊信するを見れば、之を罵詈するは宗教を悦ぶものの免れざるところである。併し人の性情は多種であり、人の境遇は多樣である。自己の是とするところのみを是とせば、天下は是ならざるものの多きに堪へざらんとするのである。故に苟も不良で無く、凶惡で無く、狂妄で無い限りは、人の思想や言説や行爲に對しては、苟も剋殺的で無く、助長的で有つて然る可きである。況んや多く剋殺的なるは、其の人の性情の拗戻偏僻なると、境遇の不滿なるとに基因する傾向の、實際世界に於て甚だ明白に認識せらるゝあるをや、と云ふも蓋し大なる誤謬では無いのである。