Q,戒名など不要ではないか。戒名は形骸化しているので必要なら自分でつけることとしている。・・・1/3
A―1/3、「戒の必要性について」・・・
戒名はお釈迦様の戒を授かって仏弟子となるためにつけるものですからまず前提となる戒そのものの必要性についてのべます。
結論は「戒を受けない者は外道であり仏の功徳を受けることは出来ない、永久に迷いの世界にとどまり苦を受けることとなる」ということです。
(・「授菩薩戒儀」には「戒を受けざる者をば、名ずけて外道邪見の人輩となす。畜生にもおとることなし」「衆生、佛戒を受ければすなわち諸仏の位に入る」「現前同会の清浄の衆生、すでに共に伸請して、菩薩戒を受けんと欲す。まずすべからく信心を発すべし。もし信心を発せば、必ず戒を納得す。今受けるところの菩薩の戒は、すなわちこれ、三世の諸仏、成道の根本。十方の菩薩、修業の規範。もしこの戒を受けず、生死の苦を脱せんと欲せばこのことわりあることなし。菩提を成さんとねがわばこのことわりあることなし。」「菩薩戒を受けざる者はたとえ仏法を学び、勤求修業して千万劫を経るとも、ただ衆生と名ずく。」とあり、
・華厳経には「戒はこれ無上菩提の本なり。まさに具足して浄戒を持すべし。もしよく禁戒を堅持すればこれ如来の賛嘆したまふところなり。」とあり、
・涅槃経には「佛性を見、大涅槃を証せんと欲はば必ずすべからく深心に浄戒を修持すべし。」とあり、
・梵網経には「衆生、佛戒を受ければすなわち諸仏の位に入ると。また曰く、この戒を受けざる者をば、名ずけて外道邪見の人輩となす。畜生にもおとることなし。」とあり、
・蓮遮乾子経には「如来功徳の身は、戒を受けるをもって本となす。戒を持するをもって始となす」とあり、
・『正法眼蔵』「出家」にも「あきらかにしるべし、諸仏諸祖の成道、ただこれ出家受戒のみなり、諸仏諸祖の命脈、たたこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに仏祖にあらざるなり。仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。 」とあり、受戒なくして成仏はありえないと道元禅師も厳しくおしゃっています。)
A―1/3、「戒の必要性について」・・・
戒名はお釈迦様の戒を授かって仏弟子となるためにつけるものですからまず前提となる戒そのものの必要性についてのべます。
結論は「戒を受けない者は外道であり仏の功徳を受けることは出来ない、永久に迷いの世界にとどまり苦を受けることとなる」ということです。
(・「授菩薩戒儀」には「戒を受けざる者をば、名ずけて外道邪見の人輩となす。畜生にもおとることなし」「衆生、佛戒を受ければすなわち諸仏の位に入る」「現前同会の清浄の衆生、すでに共に伸請して、菩薩戒を受けんと欲す。まずすべからく信心を発すべし。もし信心を発せば、必ず戒を納得す。今受けるところの菩薩の戒は、すなわちこれ、三世の諸仏、成道の根本。十方の菩薩、修業の規範。もしこの戒を受けず、生死の苦を脱せんと欲せばこのことわりあることなし。菩提を成さんとねがわばこのことわりあることなし。」「菩薩戒を受けざる者はたとえ仏法を学び、勤求修業して千万劫を経るとも、ただ衆生と名ずく。」とあり、
・華厳経には「戒はこれ無上菩提の本なり。まさに具足して浄戒を持すべし。もしよく禁戒を堅持すればこれ如来の賛嘆したまふところなり。」とあり、
・涅槃経には「佛性を見、大涅槃を証せんと欲はば必ずすべからく深心に浄戒を修持すべし。」とあり、
・梵網経には「衆生、佛戒を受ければすなわち諸仏の位に入ると。また曰く、この戒を受けざる者をば、名ずけて外道邪見の人輩となす。畜生にもおとることなし。」とあり、
・蓮遮乾子経には「如来功徳の身は、戒を受けるをもって本となす。戒を持するをもって始となす」とあり、
・『正法眼蔵』「出家」にも「あきらかにしるべし、諸仏諸祖の成道、ただこれ出家受戒のみなり、諸仏諸祖の命脈、たたこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに仏祖にあらざるなり。仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。 」とあり、受戒なくして成仏はありえないと道元禅師も厳しくおしゃっています。)