福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・・その39

2014-03-17 | 法話

第三九課 入学試験に臨んで


 私の知人の息子が、嘗て小学校卒業の年、中学校の入学試験に失敗し、翌年は信仰によって立派に合格した例があります。
 その少年は、小学校時代は、組でも中以上の成績でしたが、随分と小心者でしたから、いざ中学校の入学試験を受けようとすると、試験場で胸がどきついたり、口が乾いたり、すっかり逆上して、何度も勉強したところを思い出せなかったり、自分の受験番号や名前さえ書き落したり、問題の意味をちょっとのことで大間違えしたりして、二、三校受験してもみな駄目でした。来年はどうかして合格しなければならぬと、試験度胸をこしらえるため、方々でやっている模擬試験(入学試験のまねごと)というのを度々受けたのでしたが、その翌年、本当の入学試験が来たとき、三つも中学校を受験してやはり駄目でした。その話を少年の母から聞いて私は気の毒に思い、どうかして少年の気を落ち付かせようと相談しました。そして私はその少年を招んで、仏さまを念じさせようとしました(仏を念ずることは、天地間の力と智に、自分の内部にある力と智とを結びつけることになります)。私の応接間でその少年を椅子に静かに腰かけさせ、眼を瞑つむって、心の中で「仏さま、仏さま、どうぞ仏さま」と、気が静まるまで呼びつづけることを稽古させました。するとその少年は暫時しばらくして、大変気が落ち付いたようだと言いますので、今度は、少年の持参した試験問題集の中の二、三の問題を別紙に抜き書きして、その少年の前の卓上に載せました。少年は、直ぐそれを何んだと思って、見ようとするのを、留めて、それを見る前にまず仏さまを念じさせました。少年は前のとおり眼を瞑って「仏さま、仏さま、どうぞ仏さま」と念じ続けました。そしてしっかり気が落ちついたと自分で感じたとき、眼を開いて、静かに試験問題を見させました。そして、答案を書かせました。
 このやり方を、家へ帰っても毎日、繰返すよう言いふくめました。どんなやさしい問題でも、それを解く前に、いちいち、仏さまを念ずる癖を付けました。
 その年の九月、第二学期はじめに補欠を採る中学校のあるのを聞いて、その少年は編入試験を受けたのでしたが、今度は立派に合格しました。しかも五十人近くの受験者のうちで十人の合格者があったのでしたが、その少年は二番で合格したのでした。
 とてもにこにこして私のところへお礼に来たその少年に、合格のお祝いを言いながら私は、少年の受験当時の様子を詳しく尋ねました。少年は何もかも打ち明けました。
「試験の前夜、いつでも不安で眠られなかったので、今度は、『仏さま、仏さま、どうぞ仏さま』と念じ続けました。そしていつの間にか眠ってしまいました。私は本当に、『仏さま』と言うことだけで何でも思うことが成就することを信じました。それから、試験場へ入る前に、もう胸がおどって仕方がないので、水を飲んで、お小用こようして、その後で『仏さま』を念じました。すると大分落ち付きました。
 それから試験場へ入って、腰かけ、答案用紙が配分くばられ、前方の黒板の上に試験問題の紙が貼られると、またしても胸がどき付いて仕方がありませんでした。それで私は眼を瞑って、下腹を両手で押えて、『仏さま』を念じました。そのとき試験官がやって来て、『何をしてるのだ』と言いましたので『気を静めております』と言いましたら、試験官は『ああそうか』と言って離れて行きました。そんなことがあったので私はまた、胸がどきどきして困りましたが、また『仏さま』を念じました。しかし、その時の私の念ずる仏さまへの言葉は、以前のよりも、もっと付け加えました。『仏さま、仏さま、どうぞ仏さま、私の勉強しただけは全部、私に思い出させて下さい。一度でも眼を通したことは洩さず思い出させて下さい』。そう念じ続けました。
 すると、何となく、『よろしい!!』というような一種の応現しるしというのか確信というのか私にはよく解らないが、ある瞬間が私のうちに来るのです。その時に、私は静かに眼を開き安静しずかな気持ちで受験番号や名前も書き入れ、問題の解答を書き進めて行きました。そして、書き終えてなお時間が余っていたから再び『仏さま』を念じて気を落ち付かせ、もう一遍吟味してから答案を出して、試験場を出ました。いちいちの試験について私は同じように『仏さま』を念じて全試験を、書き落しもせず、ど忘れもせず、本当に心残りなく終了しました。そして予想外の好成績で合格しておりました」
 そう語り続ける少年の、いたいけな姿を見守って私は深く心を打たれました。
 少年の試験場における念仏に依って直接に得たものは何か、それは宇宙に漲る大きな助力と、自分の内部に蔵しまってある潜在意識(一度でも経験したこと。生れてから今までの間に、一度でも見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、感じたり、意識したりしたことは、必ず脳の中に記録されていて、平常は潜んでいて気付きませんが、折りにふれ、催眠術により、あるいは心を澄ますとき、偶然判って来る意識です)とが喚び起されて、少年の記憶を助けたのでした。
 試験地獄に直面して、そこに自分の小さいながらも人生の血路を切り開いて行った健気な態度、自分の繊弱かよわい性質をどうにかして支持して行った苦心、そこに立派に少年の一つの理想が握られていました。苦悩の上に幸福が輝いていました。地獄と極楽とが手を繋いでいました。
 その少年は、今では中学校の上級生です。成績も十番以内です。いまでも、試験の時は必ず「仏さま」を念ずると言います。私はそれを聴いてその少年に言いました。
「試験にばかり、仏さまを利用してはいけません。あなたもこれから大人になるのですから、いろいろの事が身に振りかかって来ます。そのとき、何事によらず、仏の力を信じ念じて、立派な人格者、本当の幸福者にならなければなりません。判りますか」。すると少年は答えました。
「判る、判る」と。
(私自身も生まれた寺のご本尊十一面観音様、お大師様、お不動様、庭のお地蔵様に願をかけてそれまで東大合格者もほとんど出なかった高校から現役で東大に合格できました。しかし此の時の約束を十分に果たせてないことを五十年後の今も悔んでいます。それにしてもこの子はかの子といういい人に巡り合ったものです。『仏様という存在に気が付き、仏様を拝むことを身に着けるまでが大変なのです。當にそれが仏縁なのです。少年の試験場における念仏に依って直接に得たものは何か、それは宇宙に漲る大きな助力と、自分の内部に蔵しまってある潜在意識(一度でも経験したこと。生れてから今までの間に、一度でも見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、感じたり、意識したりしたことは、必ず脳の中に記録されていて、平常は潜んでいて気付きませんが、折りにふれ、催眠術により、あるいは心を澄ますとき、偶然判って来る意識です)とが喚び起されて、少年の記憶を助けたのでした。』というところなど本当に素晴らしい考えです。)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国遍路日記(山頭火)・・... | トップ | 四国遍路日記(山頭火)・・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事