十一月二十二日――二十六日 藤岡さんの宅にて。
ぼうぼうとして飲んだり食べたり寝たり起きたり。
晴れたり曇つたり酔うたり覚めたり秋はゆく
十一月二十七日 曇――晴、道後湯町、ちくぜんや。
朝酒をよばれて、しばらくのおわかれをする、へんろとなって道後へ、方々の宿で断られ、やっとこの宿におちつかせてもらう。
洗濯、裁縫、執筆、読書、いそがしいいそがしい。
十一月二十八日――十二月二日
酔生夢死とはこんなにしていることだろうと思った、何も記す事がない、強いて記せば――
三十日、高商に高橋さんを訪ねて久々で逢えた事、その夜来て下さって宿銭を保証して小遣を下さった事。
しみじみ自分の無能を考えさせられた日夜がつづいたことである!
十二月三日 晴。
気分ややかろし、第五十七回の誕生日、自祝も自弔もあったものじゃない! 同室の青年に話していると、高橋さん来訪、同道して藤岡さん往訪。
招かれて、夕方から高橋さんを訪う、令弟(茂夫さん)戦死し遺骨に回向する、生々死々去々来々、それでよろしいと思う。
十時ごろ帰宿、酒がこころよくまわらないので、そしていろいろさまざまのことが考えられるので、いつまでもねつかれなかった。
或る日
なんとあたたかなしらみをとる
十二月三日夜、一洵居、戦死せる高橋茂夫氏の遺骨にぬかづいて
供へまつる柿よ林檎よさんらんたり
なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく
蝋涙いつとなく長い秋も更けて
わかれていそぐ足音さむざむ
ひなたしみじみ石ころのやうに
さかのぼる秋ふかい水が渡れない
(突然戦死の遺骨の話が出てきてハッとします。やはりこの時代の厳しさです。「なむあみだぶつなむあみだぶつ みあかしまたたく」とは残された者の静かな絶叫です。しかしこの高橋氏という人は令弟が戦死したばかりなのに山頭火に喜捨をしています。なんという心の深い人でしょうか。
遍路をしていると至る所で葬式に出会います。是も不思議な取り合わせです。葬儀の野辺送りの行列の向こうに歩いている遍路の姿が見えるとなにか故人は成仏できたような気がしたというひとがいました。)
或る老人
ひなたぢつとして生きぬいてきたといつたやうな
十二月四日 曇。
早起入浴、読んだり書いたりする。
西へ東へ、或は南へ北へ、さようなら、ごきげんよう。
昼飯をたべてから歩いて――電車賃もないので――市庁のホールへ、そこで茂夫さんの市葬が営まれた、護国居士、私はひたむきにぬかずく、歩いて五時帰宿、涙ぐましい一日だった。
土と兵隊
穂すすきひかるわれらはたたかふ
十二月五日 好晴。
何となく身心不調、……何かなしにさびしい。
終日終夜黙々不動。
きのうもきょうもアルコールなし。
省みて恥じ入る外なし。
十二月六日 晴。
つめたい、霜がうっすら降っている(松山市内では初氷が張ったそうな)、冬も本格的になってきた。
頭痛、何もかも重苦しいように感じる。
朝食をすましてすぐ出かける、高橋さんの奥さんから少し借りる、局に藤岡さんを訪ねる、出張不在、一杯ひっかけて帰宿、入浴、臥床、妄想はてなし!
夜、高橋さん来訪、その人にうたれる、私は――私は、――ああああ――と長大息するのみ。
今夜も不眠、いたずらに後悔しつづける。
十二月七日 小春日和。
朝の一浴、そして一杯、ほんに小春だ!
身辺整理、洗え洗え、捨てろ捨てろ。
午後は近郊散策、道後グラウンドは荒廃している、常信寺はなかなかよい。(常信寺は、松山市にある天台宗の寺院。690年(持統天皇4年)、勅令により建立された法相宗の神宮寺。山号祝谷山、本尊阿弥陀如来。)
夕方、高橋さんを訪ね、同道して義安寺へ参拝、高商の坐禅会に参加する。(義安寺は、松山市にある曹洞宗寺院、 護国山義安禅寺。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所番外札所。)
帰宿してまた一杯、また、……同宿同室は老人ばかり、しずかでさびしかった。
十二月八日 曇――晴。
無能無力、無銭無悩。……
……………………………
………………………………
十二月九日 晴。
――山頭火はなまけもの也、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり、草の如し。
午後近在散歩。
十二月十日
おなじような日がまた一日過ぎていった。
十二月十一日 晴。
高橋さんを訪う、同道して貸部屋探し、見つからない、途中、二神さんを訪う、初めて房子さんに会う。
高橋さんから小遣を頂戴したので一二杯ひっかける。
十二月十二日 十三日
十二日の未明、臨検があっただけ。
………………………
ぼうぼうとして飲んだり食べたり寝たり起きたり。
晴れたり曇つたり酔うたり覚めたり秋はゆく
十一月二十七日 曇――晴、道後湯町、ちくぜんや。
朝酒をよばれて、しばらくのおわかれをする、へんろとなって道後へ、方々の宿で断られ、やっとこの宿におちつかせてもらう。
洗濯、裁縫、執筆、読書、いそがしいいそがしい。
十一月二十八日――十二月二日
酔生夢死とはこんなにしていることだろうと思った、何も記す事がない、強いて記せば――
三十日、高商に高橋さんを訪ねて久々で逢えた事、その夜来て下さって宿銭を保証して小遣を下さった事。
しみじみ自分の無能を考えさせられた日夜がつづいたことである!
十二月三日 晴。
気分ややかろし、第五十七回の誕生日、自祝も自弔もあったものじゃない! 同室の青年に話していると、高橋さん来訪、同道して藤岡さん往訪。
招かれて、夕方から高橋さんを訪う、令弟(茂夫さん)戦死し遺骨に回向する、生々死々去々来々、それでよろしいと思う。
十時ごろ帰宿、酒がこころよくまわらないので、そしていろいろさまざまのことが考えられるので、いつまでもねつかれなかった。
或る日
なんとあたたかなしらみをとる
十二月三日夜、一洵居、戦死せる高橋茂夫氏の遺骨にぬかづいて
供へまつる柿よ林檎よさんらんたり
なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく
蝋涙いつとなく長い秋も更けて
わかれていそぐ足音さむざむ
ひなたしみじみ石ころのやうに
さかのぼる秋ふかい水が渡れない
(突然戦死の遺骨の話が出てきてハッとします。やはりこの時代の厳しさです。「なむあみだぶつなむあみだぶつ みあかしまたたく」とは残された者の静かな絶叫です。しかしこの高橋氏という人は令弟が戦死したばかりなのに山頭火に喜捨をしています。なんという心の深い人でしょうか。
遍路をしていると至る所で葬式に出会います。是も不思議な取り合わせです。葬儀の野辺送りの行列の向こうに歩いている遍路の姿が見えるとなにか故人は成仏できたような気がしたというひとがいました。)
或る老人
ひなたぢつとして生きぬいてきたといつたやうな
十二月四日 曇。
早起入浴、読んだり書いたりする。
西へ東へ、或は南へ北へ、さようなら、ごきげんよう。
昼飯をたべてから歩いて――電車賃もないので――市庁のホールへ、そこで茂夫さんの市葬が営まれた、護国居士、私はひたむきにぬかずく、歩いて五時帰宿、涙ぐましい一日だった。
土と兵隊
穂すすきひかるわれらはたたかふ
十二月五日 好晴。
何となく身心不調、……何かなしにさびしい。
終日終夜黙々不動。
きのうもきょうもアルコールなし。
省みて恥じ入る外なし。
十二月六日 晴。
つめたい、霜がうっすら降っている(松山市内では初氷が張ったそうな)、冬も本格的になってきた。
頭痛、何もかも重苦しいように感じる。
朝食をすましてすぐ出かける、高橋さんの奥さんから少し借りる、局に藤岡さんを訪ねる、出張不在、一杯ひっかけて帰宿、入浴、臥床、妄想はてなし!
夜、高橋さん来訪、その人にうたれる、私は――私は、――ああああ――と長大息するのみ。
今夜も不眠、いたずらに後悔しつづける。
十二月七日 小春日和。
朝の一浴、そして一杯、ほんに小春だ!
身辺整理、洗え洗え、捨てろ捨てろ。
午後は近郊散策、道後グラウンドは荒廃している、常信寺はなかなかよい。(常信寺は、松山市にある天台宗の寺院。690年(持統天皇4年)、勅令により建立された法相宗の神宮寺。山号祝谷山、本尊阿弥陀如来。)
夕方、高橋さんを訪ね、同道して義安寺へ参拝、高商の坐禅会に参加する。(義安寺は、松山市にある曹洞宗寺院、 護国山義安禅寺。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所番外札所。)
帰宿してまた一杯、また、……同宿同室は老人ばかり、しずかでさびしかった。
十二月八日 曇――晴。
無能無力、無銭無悩。……
……………………………
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十二月九日 晴。
――山頭火はなまけもの也、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり、草の如し。
午後近在散歩。
十二月十日
おなじような日がまた一日過ぎていった。
十二月十一日 晴。
高橋さんを訪う、同道して貸部屋探し、見つからない、途中、二神さんを訪う、初めて房子さんに会う。
高橋さんから小遣を頂戴したので一二杯ひっかける。
十二月十二日 十三日
十二日の未明、臨検があっただけ。
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