福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その48

2014-03-26 | Q&A

第四八課 女のヒステリー


 世間一般に言いならされたいわゆる「女のヒステリー」というものは、医学上でいうヒステリー症とは大変な相違があるようです。医学上のヒステリーは一種の精神病を指し、それは女ばかりでなく男でも子供でも起るそうです。その患者は時折癲癇のようにひっくりかえり、不断でも体の方々が痺れたりするそうです。しかし、私がここで述べますのは、世間でよく人々が悪口に言う「あの女はヒステリーだよ」とか、夫が妻に「お前はヒステリーだ」と言う、あのヒステリーのことです。
 いわゆる女のヒステリーは、愛欲の変形であります。何ものをも惜しみ奪わんとする情欲と、気に入らぬものをことごとく排斥せんとする感情の入り交ったものです。他人の功績を嫉み、自分がそれに及ばぬのを口惜しがり、人々に愛されぬのを不満に思い、常に自分が悪評され、世間から除外されるのを気づかい、一日一刻たりとも気を落ち付けて過すことが出来なくなります。
 このヒステリーは、大抵結婚した女に多いのであります。それは、余り世間の荒い波風に当らなかったか弱い、あるいは生一本な処女おとめが、家庭を持ってその主婦となり、周囲の煩瑣な事件や境遇にひどくいたぶられた時、それに呼応して起った心内の愛欲苦悶が素直にはけ口を得ずして鬱屈し、これに加えて肉体的の過労や病気がますますヒステリーを引き起す助縁となります。そして、常に心を悩ます事柄には特に過敏になって来ます。例えば、家庭において唯一の頼みとする夫に背かれた場合、あるいは背かれたように誤解した場合、または前以て予期して、びくびくしていた姑や小姑に気に入られぬ場合、あるいはそう誤信した場合、その事に限って特に過敏になります。夫が女中と口を利いたのを、愛のささやきと誤り、嫉妬の焔に身を焼き、周囲の人々をみんな敵のごとく考えたりします。
 しかし人間の脳力には限度がありまして、嫉妬とか邪推とかの方面にばかり鋭くはなりますが他の方面は無力になり、意志力なども弱くなって、前後の見境いなく騒ぎ出したり、急に陽気になって笑い出したり、先刻までひどく嫌っていた人を急に好きになったりします。この状態が嵩ずると本当の精神病になってしまうでしょう。恐ろしいことです。どうしたらこの状態を正常の位置まで匡正出来るでしょうか。すなわち女のヒステリーを、どう処置したら良いでしょうか。その原因の一部は、夫に在り、周囲の身内の人達にもあるのですから、それらの人々は充分注意してこの女の安心を得るよう努めるのが人情でありましょう。
 しかし、女のヒステリーなるものは、持って生れた過剰な愛欲の変形したものですから、――しかも愛欲だけ過剰であって、他の感情が少いから圧えつけられて現れないので――その愛欲をどうにかしなければ根本の治療になりません。
 ヒステリーが医薬で治療出来る程度のものでしたら、直ちに医師に任せる方がよろしいですけれど、ひどくなったヒステリーは、ものが精神作用の問題ですからちょっと面倒でしょう。
 その女に向って諄々と正常な愛欲を説きさとすのも全然無駄ではないでしょう。催眠術をかけたり、一種の暗示法や精神分析による解悟法も幾分効果があることもありましょう。
 がしかし、一旦歪んでしまった愛欲は、なかなかそんなことでは、もとへ引き戻せるものではありません。こんな際に仏教では、その歪み傷ついた愛欲をそのままそっくり信仰の行業ぎょうごうへ向わせます。
「ある地方の町に、女学校がありました。中年で数学の教師の奥さんは、狭い町中で直ぐ評判になったほどのヒステリー女でした。毎日女学校へ行く夫のことを思うと身も心も切り刻まれるほど苦しみました。私の夫の顔を、校中の学生たちがみんな見詰める。そう思うだけでも夫が汚されたように考えるのでした。そして夫が学生たちに笑いかける。そう思うだけでも、もう夫は堕落したように思いました。いっそ女学校へ飛んで行って、この人は私の夫よ、と宣言してやりたいとさえ思い焦りました。夫が帰宅しても出迎えもせず、側へ夫が近寄ると、汚ならしいものが出来たように身を引きました。しかし内心では夫を死ぬほど愛していたのですから、脳も疲れ果てて嫉妬することや、疑ぐることが出来なくなると、呆然として、ただただ馬鹿のように夫に寄りすがるのでした。
 ある日のことでした。妻は身を町角に隠して夫の帰途の様子を覗うかがっておりました。やがて夫は歩いて来ました。そして運悪く、横町から出て来た若い女に思わず知らず振り向きました。夫の不行跡を待ちもうけただけに、そんな些細なことでも妻のヒステリーに異常な刺戟を与えました。やにわに必死の暴力を出して夫を組み伏せた妻は、禿げた夫の頭を叩いて泣きわめくのでした。これを目撃した町の人々や、同じく帰途にあった女学生たちは、余りのことに呆れ果てて、その周囲まわりに立ちつくしました。
 もう翌日からは学校はもちろん、町中大評判になって、その教師は辞職せねばならぬ羽目になりました。どんなにその夫妻は悶え苦しんだでしょう。三日間の後、もはや仏神の力を仰ぐより外、仕方がないと覚りました。そして日蓮宗のお寺を訪問して救いを求めた時、勧められたのは、お題目を一心不乱に唱えて、太鼓を叩くことでした。そこで彼女は、悲しいにつけ、苦しいにつけ、恨めしいにつけ、嫉ましいにつけ、お題目を唱え、太鼓を叩きました。それは単なる行為でした。でも、不思議なことに、彼女の強烈な感情は、題目一つ唱えるにつれ、太鼓を一度叩くにつれ、雲散霧飛して行きました。彼女は今まで持て余した情熱を、みんなその方面に吸い取られて大変楽になりました。やっと彼女の感情は整理されて、正当な夫婦愛に立ち帰って来ました。その間に、夫は、妻のこの健気な姿に幾度むせび泣いたことでしょう。一緒になって題目を唱え、太鼓を叩いて妻の信仰を援けました。
 人の至誠は何人にも感動を与えずには置きません。町の人達も、女学生達も、更生したその教師を再び校庭に迎えて懐かしみ、また尊敬致しました」
 仏教は、人生上の欲望煩悶を救わんとして出来上ったものでありますから、この例などの救済は最も得意とするところであります。しかして、釈尊をはじめ、古今多数の開祖、名僧知識たちは、大抵その欲望、煩悶の人一倍強かった人達でありまして、自分自身の克服解脱から割り出した宗旨、教義、修業法でありますから、それぞれ救い方に特色があります。そのいずれの宗旨、教義、修業法によって自分が救われやすいかは、自分の性質によく似通った開祖や名僧知識の説きましたものを選ぶのがよろしいと思います。例として挙げました女の劇しい単的な性質には、日蓮宗の行業がうまく当て嵌ったのでした。

(ヒステリーというのも阿頼耶識に染みついた深い業かもしれません。ただ大変なヒステリー症の人も身内以外の他人に対してヒステリー症状を爆発させることはないようです。そういう意味では単なる我儘という面もあるのでしょう。他者に向けられるようではこれは完全に犯罪となります。どこかで読んだのですが山岡鉄舟にある人が『私は癇癪持ちの心があって困ります。治してください。』といったら鉄舟は『その心を此処へ出して見せなさい。そうすれば治しましょう』といったと云います。無門関四十一則に 達磨安心という則があります。「達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂を断って云く、「弟子は心未だ安からず。乞う、師安心せしめよ」。磨云く、「心を将ち来れ、汝が為に安んぜん」。祖云く、「心を覓むるに了に不可得なり」。磨云く、「汝が為に安心し竟(おわ)んぬ」」です。いずれも「心には実体などないですよ」といっているのです。しかし自分の心が自分で自由にならないで凡夫は迷いに迷うのです。
かの子の提案の、このお題目を唱える対処方法は素晴らしいと思います。写経・読経も効果があります。)
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