第四九課 仕事
仕事を力一ぱい以上にやり、身も心もほとほとに疲れ果て、しかしそのまま寝倒れるのも惜しいというときがあります。このとき、つまらない末梢神経は尾をたたんでどこかの隅に消え隠れてしまい、ただ大きく頷く了々たる月のようなものが心の一角に引きかかっています。また感謝と恍惚が身体の節々まで浸み通り、皮膚さえ匂わしく感じられるのです。
仕事はどんな出来でも、自分には、これ以上出来ないのです。これ以下にも出来ないのです。
庭の景色が晩秋の午前の陽を受けて、おぼろな面ざしで私の顔に貼付くほど近く浮き出して見えます。池の鯉の尾鰭の揺めきが頬に柔かく触れるようです。
「無我」というのは、こういう気持ちでしょうか。人に言われた皮肉も痛くなければ、褒められたのにも浮き立ちもしません。
ただ、しとしとと心の上より下へ向って滴り落ちる雫は、思いやりと、慈しみと、親しさと、恩愛の情です。
そして、それが誰へ向けて、どちらの方へということはありません。広く深く、私より気の毒な方へ。ただそれだけです。
私は合掌して口誦みます。
「妙音・観世音みょうおんかんぜおん 梵音・海潮音ぼんおんかいちょうおん」 観音の有難さ、それは潮の音のごとく大きくひたひたと押し寄せる。
「勝彼世間音しょうひせけんおん 是故須常念ぜこしゅじょうねん 」世俗の雑音の上をおおうて衆生の呼ぶのに応ぜんとする故に、人々は常に観音を念ずべきだ。
さればといって格別需むることもありません。
空に、プロペラの音がします。私は寝ます。ゆうべ徹夜でした。
(妙音(妙なる音)・観世音(世を観ずる音)、梵音(仏様の音)・海潮音(海の音)、勝彼世間音(世間より勝れたる音)という観音経にある五音は、真観(真理を見る眼差し)、清浄観(自他一如と見る眼差し)、広大智慧観(広大なる智慧の眼差し)、悲観(抜苦の眼差し)・慈観(与樂の眼差し)の五観と対応しているとされます。沢木興道老師「観音経講話」には「五妙音」として「・・人間は妙なもので・・音楽を聞くといい気持ちになる。非常に妙なる音を聞くと体が涼しくなってとげとげした気持ちがなくなる。梵音これは清浄観である。海潮音これは悲観・慈観。勝彼世間音は真観に相当する。・・松は吹く説法度生の声、柳は暗し観音微妙の相、一切目に見るもの観音である。一切耳に聞くものは観音である・・」といっておられます。見る物・聞く物が観音様ならばここはそのまま観音様の補陀落浄土です。かの子もそう言いたかったのでしょう。)