福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

清盛/保元元年四月高野山大塔造塔供養(高野春秋)。

2023-04-14 | 法話

 

「高野春秋」「(保元元年1156)夏四月、大塔造畢んぬ。慶導師長者權大僧都寛遍座主、呪願兼賢検校、着座太宰大貮平朝臣清盛、大工散位藤原朝臣國任、佛工法服圓信、行事三人、各布衣着す。畫師常明法印也。五佛開眼加持・・・行賢、各巍々堂々然。群参人足を踏み肩を比す也。平朝臣大曼荼羅を新附し金堂左右に挂(かけ)奉る。古史に云、此の両界常明筆なり。中臺大日尊は清盛武将、頭頂の血を取出し畫具に和し之を彩色すと。之に加へ登山壇参の時、大塔前櫻木下に大師現具され未来の慈誨を垂示さる。之に依りて此の櫻を影向櫻と號し、又対面櫻と呼ぶ。是れ則ち七株の一木也。學侶皆大曼供に参じ法儀凛凛矣。」

 

「平家物語・大塔建立の巻」に関連部分があります。

 「・・・そもそも平家安芸厳島を信じ始められける事を、いかにといふに、清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国を以て、高野の大塔修理せられけるに、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌に付けられて、六年に修理終はりぬ。修理終はって後、清盛高野へ上り、大塔拝み、奥の院へ参られけるに、いづくより来るともなく、老僧の白髪なるが、眉には霜を垂れ、額に波を畳み、鹿杖(かせづえ)の二股なるにすがって、出で来給へり。この僧何となう物語をしける程に、

「それ我が山は、昔より密宗をひかへて退転なし。天下にまたも候はず。大塔すでに修理終はり候ひたり。それに付き候うては、越前の気比の宮と安芸の厳島は、両界の垂迹にて候ふが、気比の宮は栄えたれども、厳島はなきが如くに荒れ果てて候。あはれ、同じうは、このついでに奏聞して、修理せさせ給へかし。さだにも候はば、官・加階は肩を並ぶる人、天下に又もあるまじきぞ」

とて立たれけり。此の老僧の居給へる所に、異香即ち薫じたり。人を付けて見せらるるに、三町ばかりは見え給ひて、その後はかき消すやうに失せ給ひぬ。

 これただ人にあらず、大師にてましましけりと、いよいよ尊く覚えて、娑婆世界の思ひ出にとて、高野の金堂に曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印と云ふ絵師に書かせらる。東曼陀羅をば「清盛書かん」とて、自筆に書かれけるが、八葉の中尊の宝冠をば、いかが思はれけん、我が頭の血を出いて、書かれけるとぞ聞えし。その後、都へ上り、院参して、この由を奏聞せられたりければ、君も臣も御感ありけり。

 なほ任を延べられて厳島をも修理せらる。鳥居を建て替へ、社々を造り替へ、百八十間の廻廊をぞ作られける。修理終って後、清盛厳島へ参り、通夜せられける夢に、御宝殿の御戸押し開き、鬢結うたる天童の出でて、

「我はこれ大明神の御使なり。汝この剣を以て、朝家の御堅めたるべし」

とて、銀の蛭巻したる小長刀を賜はるといふ夢を見て、覚めて後見給へば、現に枕上にぞ立ったりける。さて大明神御託宣ありけり。

「汝知れりや忘れりや。ある聖を以て言はせし事は、只悪行あらば、子孫までは叶ふまじきぞ」とて大明神あがらせ給ひぬ。目出たかりし事ども也。」

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