このところのコロナ禍で政治家や役人・経済人・マスコミ等の劣化ぶりが改めて目を覆うばかりです。自分もこういうところにいたのでよくわかりますが、もともと政治家は権力、霞が関は省益、財界人は経済的利益、マスコミは瞬間的高揚を求めることのみがそれぞれの人生の目的そのものになり下がっていますから、こういう大危機にたいする根本的対応ははじめから無理なのです。
振り返ると最近でも歴史に残る大きな功績を残した政治家はみな仏教に教えを求めていました。最近見つかった一例です。
・私の空手部の大先輩でもある右翼大物の田中清玄の回顧録には稀代の禅僧山本玄峯老師のもとに終戦直前にも多くの政治家が助けを求めに来ていた様がありありと記述されていました。昭和天皇皇后両陛下も密かに玄峯老師に逢っておられたと思わせる記述もあります。ここでは玄峯老師に教えを求めた政治家として、首相鈴木貫太郎、米内光政海軍大臣,木戸幸一内大臣,枢密顧問官伊沢多喜男、山梨勝之進海軍大将,近衛内閣書記官長富田健治、迫水久常書記官長等が挙がっています。
「陛下の意を受けて,陛下をお助け申し,ポツダム宣言受諾敗戦という救国の未曾有の大業をなされた最大の功臣は当時の首相鈴木貫太郎さんだ。それから米内光政海軍大臣,木戸幸一内大臣,枢密顧問官の伊沢多喜男さん。こういう本当の老人達の分別ある,天下の大道を知っている法力をもった右のような人たちが陛下を補佐して戦争を辞めさせた。それらの人々の心魂の中におられたのが,わが師山本玄峰老師であった。・・・実際,龍沢寺にいて,老師が正味重大な立場におられるのは知っていたからだ。老師に相見を乞われてお見えになるのは,鈴木貫太郎さんであったり,米内さんであったりしたわけなのだから。もちろん中には,山梨勝之進海軍大将,近衛内閣の書記官長であった富田健治さん,また迫水久常書記官長もおられた。そんなある日,老師は,「貞明皇后様が国のことをいかい心配してござるわ。戦争で国民にこれ以上の苦しみを与えたくないというんで,いかいこと心を痛めてござるか」ともらされた。そのとき,私はハッと気がついた。これは,老師は,貞明皇后さんにお会いしているな,と。また老師は,ひとり言をもらすように,『今上様(天皇陛下のこと)も,これ以上戦争を続けて国民に苦しみを与えたくないとご心配してござるわ」とも言われた。私はこれらのことは戦後も二十有五年間,自分の胸にしまい込んで何人にももらさなかった。」(「田中清玄と中東」)
・昭和の妖怪と呼ばれた岸信介も相当の仏教信者でした。当方も四国遍路で多くの札所に岸の心経の写経や理趣経の句が奉納されているのを目撃しています。
ここには岸が老年1150巻の心経を写経して高野山に納めたことが客観的に記述されています。
「御殿場東山の旧岸邸の主であった岸信介は73歳から逝去する90歳まで御殿場の自邸で過ごし、弘法大師ご入定1150年の際には高野山の奉賛会長(注1)をつとめ、般若心経1150巻をこの邸宅で書き奉納されました。」
(注1)弘法大師奉賛会は岸の後、福田赳夫、中曽根康弘も会長を務めています。
・中曽根康弘元総理は、谷中の全生庵で座禅を続けていたのは有名です。道元禅師の『正法眼蔵』を座右の書としていたといいます。