西行法師は四国遍路でいつも思い出す方です。
・73番出釈迦寺・我拝師山では西行法師が我拝師山参道で休んだときの「西行腰掛石」もあります。
・特に四国81番白峰寺の崇徳陵にお参りするとその蕭条とした景色に雨月物語の西行さんを思い出します。雨月物語の最初に「白峰」として西行法師の話がでてくるからです。名文で内容もダイナミックなので、長いが引用します。 「・・・この里近き白峰といふ所にこそ、新院の陵ありとききて、拝みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奥深く茂りあひて、青雲のたなびく日すら小雨そぼふるがごとし。・・・土たかく積みたるがうえに、石を三つがさねに畳なしたるが、うばかずらに埋もれてうらがなしきを、これならん御墓にやと心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。・・・終夜供養したてまつらばやと、・・石の上に座をしめて、経文徐かに誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。 『松山の浪のけしきはかはらじをかたなくきみはなりまさりけり』 ・・・あやなき闇にうらぶれて・・まさしく『円位』『円位』(西行のこと)と呼ぶ声す。・・・その形異なる人の、背高く痩せおとろへたるが・・・前によみつる言の葉のかへりこと聞こえんとて見つるなりとて 『松山の浪に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。』 『うれしくも詣でつるよ』と聞こゆるに、新院の霊なることを知りて地にぬかずき涙をながしていふ『さりとていかに迷はせたまふや。・・・佛果円満の位に昇らせたまへ』と情をつくして諌め奉る。」 と書かれています。この後崇徳帝の亡霊は(父鳥羽天皇の後を自分の子重仁が継げず後白河帝が継いだので保元の乱を起こした後)「国と朝廷を呪って平治の乱を起こさせた。そのあと平家も滅亡させるであろう」と予言し雨月物語の作者は「世の中は崇徳帝の亡霊の予言通りになった」として以下のように書いています。 「平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志度、八島にいたりて、武きつはものどもおほく鼇魚(ごうぎょ)のはらに葬られ、赤間が関、壇ノ浦にせまりて、幼主海に入らせたまへば、軍将たちものこりなく亡びしまで、つゆたがはざりしぞ、おそろしくあやしきかたりぐさなりけり。・・・」とあります。
・四国88所と西行さんの関係は頼富本宏「四国遍路とはなにか」に「西行法師は仁安二年備前国児島から讃岐の国に渡った。弘法大師を思慕する旅であったことは詠んだ歌からも知られる。「保元物語」には「この西行は四国辺地を巡見せし」とあるが実際には讃岐の国のみの旅であった。ただ西行集には「土佐の方へ、まからばやと思ひ立つことはべりしに、『ここをまたわがすみうくて別れなば 松はひとりにならむとすらむ』」と詞書にもあるように、土佐の国へいくことも望んでいたようである。西行の旅路は保元の乱で流罪となっていた崇徳上皇の遺跡をたずねることから始まっている。雲井配所の跡を経て五色台に登りのちの81番白峯寺に隣接する崇徳上皇白峯陵を拝した。このときに詠んだ歌は陵を鳴動させたと伝えられる。その後西行は大師を慕って歩を勧め第75番善通寺の近くにあった西行庵(現在の玉泉院)や72番曼荼羅寺の近くの水茎に草庵を結ぶ。・・捨身が嶽にも登り、しばらくの間、讃岐の各地を遊行した。水茎の岡の草庵で詠んだと思われる一首には「おなじくにに、大師のおはしましける御あたりの山に、いほり結びてすみけるに、月いとあかくて、海のかたくもりなく見えければ『くもりなき 山にて海の月みれば しまぞこほりの たえまなりける』・・
・73番出釈迦寺・我拝師山では西行法師が我拝師山参道で休んだときの「西行腰掛石」もあります。
・特に四国81番白峰寺の崇徳陵にお参りするとその蕭条とした景色に雨月物語の西行さんを思い出します。雨月物語の最初に「白峰」として西行法師の話がでてくるからです。名文で内容もダイナミックなので、長いが引用します。 「・・・この里近き白峰といふ所にこそ、新院の陵ありとききて、拝みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奥深く茂りあひて、青雲のたなびく日すら小雨そぼふるがごとし。・・・土たかく積みたるがうえに、石を三つがさねに畳なしたるが、うばかずらに埋もれてうらがなしきを、これならん御墓にやと心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。・・・終夜供養したてまつらばやと、・・石の上に座をしめて、経文徐かに誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。 『松山の浪のけしきはかはらじをかたなくきみはなりまさりけり』 ・・・あやなき闇にうらぶれて・・まさしく『円位』『円位』(西行のこと)と呼ぶ声す。・・・その形異なる人の、背高く痩せおとろへたるが・・・前によみつる言の葉のかへりこと聞こえんとて見つるなりとて 『松山の浪に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。』 『うれしくも詣でつるよ』と聞こゆるに、新院の霊なることを知りて地にぬかずき涙をながしていふ『さりとていかに迷はせたまふや。・・・佛果円満の位に昇らせたまへ』と情をつくして諌め奉る。」 と書かれています。この後崇徳帝の亡霊は(父鳥羽天皇の後を自分の子重仁が継げず後白河帝が継いだので保元の乱を起こした後)「国と朝廷を呪って平治の乱を起こさせた。そのあと平家も滅亡させるであろう」と予言し雨月物語の作者は「世の中は崇徳帝の亡霊の予言通りになった」として以下のように書いています。 「平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志度、八島にいたりて、武きつはものどもおほく鼇魚(ごうぎょ)のはらに葬られ、赤間が関、壇ノ浦にせまりて、幼主海に入らせたまへば、軍将たちものこりなく亡びしまで、つゆたがはざりしぞ、おそろしくあやしきかたりぐさなりけり。・・・」とあります。
・四国88所と西行さんの関係は頼富本宏「四国遍路とはなにか」に「西行法師は仁安二年備前国児島から讃岐の国に渡った。弘法大師を思慕する旅であったことは詠んだ歌からも知られる。「保元物語」には「この西行は四国辺地を巡見せし」とあるが実際には讃岐の国のみの旅であった。ただ西行集には「土佐の方へ、まからばやと思ひ立つことはべりしに、『ここをまたわがすみうくて別れなば 松はひとりにならむとすらむ』」と詞書にもあるように、土佐の国へいくことも望んでいたようである。西行の旅路は保元の乱で流罪となっていた崇徳上皇の遺跡をたずねることから始まっている。雲井配所の跡を経て五色台に登りのちの81番白峯寺に隣接する崇徳上皇白峯陵を拝した。このときに詠んだ歌は陵を鳴動させたと伝えられる。その後西行は大師を慕って歩を勧め第75番善通寺の近くにあった西行庵(現在の玉泉院)や72番曼荼羅寺の近くの水茎に草庵を結ぶ。・・捨身が嶽にも登り、しばらくの間、讃岐の各地を遊行した。水茎の岡の草庵で詠んだと思われる一首には「おなじくにに、大師のおはしましける御あたりの山に、いほり結びてすみけるに、月いとあかくて、海のかたくもりなく見えければ『くもりなき 山にて海の月みれば しまぞこほりの たえまなりける』・・