「人事を尽くして天命を待つ」といいますが、それだけでは十分な力は発揮できません。また結果に悔いが残ることもあります。
「祈りを尽くし人事を尽くして」はじめて「天命を待つ」気持ちになれるのだと思います。
どうすれば人事を尽くしたことになるのか?これはそれぞれの状況によります。当然ですが一律にこういう状態が人事を尽くした状態、とは言えません。
それと同じように、
どう拝めば祈りを尽くしたことになるのか?ということは人に聞いてわかるものではありません。人に聞いてその通りにしても自分で心の底から納得できてなければ意味がありません。それぞれ「人事をつくす」時と同じように其の人の機根や生活態度で祈り方は違ってきます。自分で「もうこれで祈りを尽くした。あとは神仏にお任せするのみ・・」と思えるまで拝み込むしかありません。ここで「祈り」とは生活そのものです。神仏の前で祈ることは勿論ですが、「日々の生活そのものが祈り」であることも忘れてはならないと思います。そして日々必死に「祈って」おれば必ず「あとは神仏にお任せしよう」という気持ちになれる時が必ず来ます。
そうすれば結果はおのずとついてきます。