9月24日は坂東12番慈恩寺にお参りします。岩槻駅に10時30分集合です。
第十二番 華林山慈恩寺の由来です。
ご本尊は千手観世音菩薩。御真言は『おん、ばざら、たらまきりく』
開基は天台六祖慈覚大師により、天長元年(八二四)に創立。
ご詠歌「慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても」
1、沿革
『坂東霊場記』には慈覚大師が日光山の麓で「一乗止観の法灯を掲げ、円通薩�券の霊場を興さんとす、付し願わくは仏法の護神その基地を示したまへ」といのって李をなげそれが落ちて根付いたのがこの慈恩寺で、慈覚大師が千手観音の尊像を自刻、一宇を建立して安置したのに始まると伝えています。そのため山号も華林山とされると書いています。そして慈覚大師が護摩を焚きここの池の大蛇を得脱せしめその験に7つの島が浮き出たことからご詠歌は「法の華、にほふ林の寺の池、しずめる身さへ浮かぶ七嶋」ともされるとあります。
また寺名は慈覚大師が入唐求法の時に修学した長安の大慈恩寺の風景(半月形の池に周囲の山陰が映っているさま)にこの地が似ているのでつけられたとあります。これが縁となって現在では境内から東南三〇〇メートルの地に玄奘三蔵法師の「霊骨塔」が建てられています。昭和十七年、南京駐留の日本軍がたまたま土木作業中に玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘し、その分骨が現在、ここの石造十三重の塔に納められているということです。
2、霊験
坂東霊場記には「永正年間、寺嶋善六というものがながくこの寺の観音様を信仰していたが60過ぎて病に倒れた。快癒を祈願したが寺僧に「定業によるものであるからむしろ臨終正念往生を願うべき」と教えられ以来病人は飲食を絶ち正念往生を願っていたが4日目に「観音様が多くの聖衆と我が家にお越しになった」といってご寶号をとなえつつ亡くなった。」とあります。
またインターネットには「観音さまのご功徳」 として、慈恩寺住職 大嶋見順師の以下の一文があります。
「当山にお参りの方々には案内と一緒に「十句観音経」をお頒ちいたしております。当山先代が癌の手術の折、十句観音経のおかげで九死に一生を得たことから、その功徳をみなさまにお頒ちしたいと考えてのことです。この観音経を、少しでもお役にたてば、と布施続けてくださっておられた中村余容先生も、観音経により救われ、書家として画家としてご活躍された方です。白隠禅師の霊験記をまつまでもなく、そのご功徳をいただいた方々の救われた喜びを多々うかがっております。
一心に念ずることにより観音さまと一体となり、観音さまのお心をわが身にいただいて、心にやすらぎと喜びが湧いてくるのは、すべてのとらわれから解き放たれることによるものでしょうか。
いずれにしても、喜びとやすらぎをお持ち帰りいただきたいものであります。」
なお仏祖統記(一二六九年成立)には
「西暦四五〇年、南宋の王玄謨(おうげんぼ)という武将が斬殺されそうになった時、夢の中で「十句観音経を千回読誦すれば必ず許される」と告げられ、目が覚めて千回読誦して救われた」という霊験談が書かれてあるといいます。
「十句観音経」です。
「観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念々従心起 念々不離心 」
第十二番 華林山慈恩寺の由来です。
ご本尊は千手観世音菩薩。御真言は『おん、ばざら、たらまきりく』
開基は天台六祖慈覚大師により、天長元年(八二四)に創立。
ご詠歌「慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても」
1、沿革
『坂東霊場記』には慈覚大師が日光山の麓で「一乗止観の法灯を掲げ、円通薩�券の霊場を興さんとす、付し願わくは仏法の護神その基地を示したまへ」といのって李をなげそれが落ちて根付いたのがこの慈恩寺で、慈覚大師が千手観音の尊像を自刻、一宇を建立して安置したのに始まると伝えています。そのため山号も華林山とされると書いています。そして慈覚大師が護摩を焚きここの池の大蛇を得脱せしめその験に7つの島が浮き出たことからご詠歌は「法の華、にほふ林の寺の池、しずめる身さへ浮かぶ七嶋」ともされるとあります。
また寺名は慈覚大師が入唐求法の時に修学した長安の大慈恩寺の風景(半月形の池に周囲の山陰が映っているさま)にこの地が似ているのでつけられたとあります。これが縁となって現在では境内から東南三〇〇メートルの地に玄奘三蔵法師の「霊骨塔」が建てられています。昭和十七年、南京駐留の日本軍がたまたま土木作業中に玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘し、その分骨が現在、ここの石造十三重の塔に納められているということです。
2、霊験
坂東霊場記には「永正年間、寺嶋善六というものがながくこの寺の観音様を信仰していたが60過ぎて病に倒れた。快癒を祈願したが寺僧に「定業によるものであるからむしろ臨終正念往生を願うべき」と教えられ以来病人は飲食を絶ち正念往生を願っていたが4日目に「観音様が多くの聖衆と我が家にお越しになった」といってご寶号をとなえつつ亡くなった。」とあります。
またインターネットには「観音さまのご功徳」 として、慈恩寺住職 大嶋見順師の以下の一文があります。
「当山にお参りの方々には案内と一緒に「十句観音経」をお頒ちいたしております。当山先代が癌の手術の折、十句観音経のおかげで九死に一生を得たことから、その功徳をみなさまにお頒ちしたいと考えてのことです。この観音経を、少しでもお役にたてば、と布施続けてくださっておられた中村余容先生も、観音経により救われ、書家として画家としてご活躍された方です。白隠禅師の霊験記をまつまでもなく、そのご功徳をいただいた方々の救われた喜びを多々うかがっております。
一心に念ずることにより観音さまと一体となり、観音さまのお心をわが身にいただいて、心にやすらぎと喜びが湧いてくるのは、すべてのとらわれから解き放たれることによるものでしょうか。
いずれにしても、喜びとやすらぎをお持ち帰りいただきたいものであります。」
なお仏祖統記(一二六九年成立)には
「西暦四五〇年、南宋の王玄謨(おうげんぼ)という武将が斬殺されそうになった時、夢の中で「十句観音経を千回読誦すれば必ず許される」と告げられ、目が覚めて千回読誦して救われた」という霊験談が書かれてあるといいます。
「十句観音経」です。
「観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念々従心起 念々不離心 」