以前、NHK心の時間アーカイブでカウンセラーの故大須賀発蔵氏が華厳経の「方便命」のことに触れていました。
華厳経入法界品三十四の五では善財童子が進求国の方便命婆羅門を訪ねます。
「ときに婆羅門は諸々の苦行を修して一切の智をもとめ、四面の火聚は猶大山のごとく、中に刀山あり、高峻なること極まりなし、彼の山上より自ら火聚に投じたり。その時に善財は婆羅門に詣でて頭面に足を礼し、合掌して立ち、もうして言さく、『・・いかんが菩薩の道を学び、菩薩の道を修するや・・』答えて曰く『・・汝今若し能くこの刀山に登り、火聚に投ぜば菩薩の諸行は皆悉く清浄ならん』」といわれますが、それを聞いた善財童子は折角生まれてきて仏法に逢い修行しているのにここで死ぬのことはできないと思っていると、天から様々な声があり、その婆羅門は様々な衆生を助け高い境地にいる本物だとおしえます。そこで「爾時善財童子、即ち刀山に登りて自ら火聚に投ず。未だ中間に至らざるに、即ち菩薩の安住三昧を得。既に火焔に至れば、復た菩薩寂靜安樂照明三昧を得たり。得に三昧を已りて、白して言さく。『甚だ奇なり。大聖。是の如き刀山及大火聚も、我身觸る時、安隱快樂なり。』」
方便命婆羅門はこうして山の上からふもとの火に投身することを繰り返しているわけですが、この繰り返しをとらえて大須賀発蔵氏はこの全体が菩薩の姿であると思ったといいます。すなわち山上は悟りの世界、ふもとの火は迷いの世界といえましょうがこの悟りと迷いの繰り返しの世界全体が本来の悟りの世界であると気ずかされたというのです。
氏はさらに華厳経入法界品第三十九之十一にある「正円にして浄穢合成せり」ということばを引用し、宇宙は浄と穢、悟りと煩悩があわさってひとつになっているのだともいっていました。
ギリシャシ神話のシジフォスも無限に山の上に岩を押し上げるのです(アルベール・カミュ『シジフォスの神話』にもかかれています。「神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、 ある山の頂まで運びあげるというものだったが、 ひとたび山頂にまで達すると、 岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。 無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、 確かにいくらかはもっともなことであった。」 )これをいままでは「果てしない徒労」と解釈してきましたがこの「方便命」的にかんがえると意外と深い意味があるのかもしれません。
ある本山の管長さんに中曽根元総理が「あなたは悟っているのですか」とたずねると管長さんは「でたりはいったりです」と答えたということを思い出しましたが意外とこれも味のある答えだったのかもしれないといまでは思います。修行者も仏の世界と俗世界をでたり入ったりしているということでしょう。
さらに考えると自分が俗世と修行とくりかえしてなかなか俗世をでられないのもひょっとしたらそれほど悲観することではないのかもしれないなどとこの「方便命」を読んで都合よく考えることにしました。
華厳経入法界品三十四の五では善財童子が進求国の方便命婆羅門を訪ねます。
「ときに婆羅門は諸々の苦行を修して一切の智をもとめ、四面の火聚は猶大山のごとく、中に刀山あり、高峻なること極まりなし、彼の山上より自ら火聚に投じたり。その時に善財は婆羅門に詣でて頭面に足を礼し、合掌して立ち、もうして言さく、『・・いかんが菩薩の道を学び、菩薩の道を修するや・・』答えて曰く『・・汝今若し能くこの刀山に登り、火聚に投ぜば菩薩の諸行は皆悉く清浄ならん』」といわれますが、それを聞いた善財童子は折角生まれてきて仏法に逢い修行しているのにここで死ぬのことはできないと思っていると、天から様々な声があり、その婆羅門は様々な衆生を助け高い境地にいる本物だとおしえます。そこで「爾時善財童子、即ち刀山に登りて自ら火聚に投ず。未だ中間に至らざるに、即ち菩薩の安住三昧を得。既に火焔に至れば、復た菩薩寂靜安樂照明三昧を得たり。得に三昧を已りて、白して言さく。『甚だ奇なり。大聖。是の如き刀山及大火聚も、我身觸る時、安隱快樂なり。』」
方便命婆羅門はこうして山の上からふもとの火に投身することを繰り返しているわけですが、この繰り返しをとらえて大須賀発蔵氏はこの全体が菩薩の姿であると思ったといいます。すなわち山上は悟りの世界、ふもとの火は迷いの世界といえましょうがこの悟りと迷いの繰り返しの世界全体が本来の悟りの世界であると気ずかされたというのです。
氏はさらに華厳経入法界品第三十九之十一にある「正円にして浄穢合成せり」ということばを引用し、宇宙は浄と穢、悟りと煩悩があわさってひとつになっているのだともいっていました。
ギリシャシ神話のシジフォスも無限に山の上に岩を押し上げるのです(アルベール・カミュ『シジフォスの神話』にもかかれています。「神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、 ある山の頂まで運びあげるというものだったが、 ひとたび山頂にまで達すると、 岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。 無益で希望のない労働ほど怖しい懲罰はないと神々が考えたのは、 確かにいくらかはもっともなことであった。」 )これをいままでは「果てしない徒労」と解釈してきましたがこの「方便命」的にかんがえると意外と深い意味があるのかもしれません。
ある本山の管長さんに中曽根元総理が「あなたは悟っているのですか」とたずねると管長さんは「でたりはいったりです」と答えたということを思い出しましたが意外とこれも味のある答えだったのかもしれないといまでは思います。修行者も仏の世界と俗世界をでたり入ったりしているということでしょう。
さらに考えると自分が俗世と修行とくりかえしてなかなか俗世をでられないのもひょっとしたらそれほど悲観することではないのかもしれないなどとこの「方便命」を読んで都合よく考えることにしました。