大山公淳師の「中院流日用作法集伝授録」より抜粋します。「祈祷とは拝むことである。拝めば必ずお蔭がある。祈祷という言葉は大師が「秘蔵寶鑰」の中巻で一度用いられているが、密教では普通に加持という。これが本来のものである。「理趣経」の中に七回も用いられている。「加」とはくわえることで、行者の拝む力が仏に加わるのであり、「持」とは持ちこたえることで、行者の信ずる力を云う。
さてその拝む内容、願いの内容について、「十住心論」の中で大師は、すべて根本無明から起こってきていると説明されている。これらを四大(地水火風空)の不調による身病、鬼類の災いによる鬼病、悪業による業病などに分けてある。その中、身病は湯・散・丸・酒・針・灸により治療できるが、鬼と業との病気は信仰(加持)による呪・禁によらなければ治療できない。要するに「加」とは行者の三密(身口心)のはたらきを根本とする。それは日々の実践であり、「持」とは信心の働きである。これを別に表現すると、毘盧遮那の世界に入るということになる。
(注、「身病多しといえどもその要は唯六つ、四大鬼業これなり。心病多しといえどもその本は唯一つ、いわゆる無明これなり。身病の対治に八つあり、しかして心病の能治に五つあり。湯散丸酒針灸呪禁は身の能治なり。四大の乖けるには薬を服して除き、鬼業の祟りには呪悔をもってよく銷す薬力は鬼業を却ること能わず、呪功は通じて一切の病を治す。世医の療するところは唯身病のみなり。」(『十住心論』序))。
毘盧遮那の世界について、事相の中に最も大切な字輪観というものがあるが、それをもって説明したい。字輪観は普通、五大(梵字のきゃ・か・ら・ば・あ)の文字である。六大というのはこの五大に梵字の「うん」が加わる。「うん」は五大を統一する識をあらわす。あわせてこの六大が毘盧遮那の世界をあらわすのである。
「梵字のあ・ば・ら・きゃ・か・うん」は一般に地大、水大、火大、風大、空大、識大と説明され、サンスクリットの原語では本不生(梵字のあ)・、言説(梵字のば)、火(梵字のら)、因業(梵字のか)、空(梵字のきゃ)、識(梵字のうん)となり、大日経にては本不生、出過語言道、諸過得解脱、遠離於因縁、知空等虚空、諸法となり、金剛頂経では、本不生、自性離言説、清浄無垢塵、因業、等虚空、知覚性となる。・・つまり毘盧遮那とは永遠なるもの、純粋なる者、無限に発展するもの、創造するもの、一切を包含するもの、それらをひとまとめにした不可得なる原理、それが永遠のいのち毘盧遮那なのである。
「梵字のうん」について大師は「吽字義」のなかで「うん」を・・(梵字を分解して)本不生、因業、損減、吾我の意味に解され、因業による吾我を損減して本不生の世界に入ることを意味すると説明されている。即ち因業を滅して本不生の世界に入るのである。
このようにして五大、六大の神秘不可得を直観して毘盧遮那の世界に入我我入するとき、諸病が治癒されるわけである。吾等人間の上に覆いかぶさってくる種々の悩み、病気はこの毘盧遮那の世界に入ることによって解決されるわけである。
さて拝む方法はと云うとその目的に応じて儀軌を選ぶ。・・祖師先徳は種々の体験を基として「次第」となずけるものを作られ、今日に至っている。・・」大山公淳「中院流日用作法集伝授録」より)
さてその拝む内容、願いの内容について、「十住心論」の中で大師は、すべて根本無明から起こってきていると説明されている。これらを四大(地水火風空)の不調による身病、鬼類の災いによる鬼病、悪業による業病などに分けてある。その中、身病は湯・散・丸・酒・針・灸により治療できるが、鬼と業との病気は信仰(加持)による呪・禁によらなければ治療できない。要するに「加」とは行者の三密(身口心)のはたらきを根本とする。それは日々の実践であり、「持」とは信心の働きである。これを別に表現すると、毘盧遮那の世界に入るということになる。
(注、「身病多しといえどもその要は唯六つ、四大鬼業これなり。心病多しといえどもその本は唯一つ、いわゆる無明これなり。身病の対治に八つあり、しかして心病の能治に五つあり。湯散丸酒針灸呪禁は身の能治なり。四大の乖けるには薬を服して除き、鬼業の祟りには呪悔をもってよく銷す薬力は鬼業を却ること能わず、呪功は通じて一切の病を治す。世医の療するところは唯身病のみなり。」(『十住心論』序))。
毘盧遮那の世界について、事相の中に最も大切な字輪観というものがあるが、それをもって説明したい。字輪観は普通、五大(梵字のきゃ・か・ら・ば・あ)の文字である。六大というのはこの五大に梵字の「うん」が加わる。「うん」は五大を統一する識をあらわす。あわせてこの六大が毘盧遮那の世界をあらわすのである。
「梵字のあ・ば・ら・きゃ・か・うん」は一般に地大、水大、火大、風大、空大、識大と説明され、サンスクリットの原語では本不生(梵字のあ)・、言説(梵字のば)、火(梵字のら)、因業(梵字のか)、空(梵字のきゃ)、識(梵字のうん)となり、大日経にては本不生、出過語言道、諸過得解脱、遠離於因縁、知空等虚空、諸法となり、金剛頂経では、本不生、自性離言説、清浄無垢塵、因業、等虚空、知覚性となる。・・つまり毘盧遮那とは永遠なるもの、純粋なる者、無限に発展するもの、創造するもの、一切を包含するもの、それらをひとまとめにした不可得なる原理、それが永遠のいのち毘盧遮那なのである。
「梵字のうん」について大師は「吽字義」のなかで「うん」を・・(梵字を分解して)本不生、因業、損減、吾我の意味に解され、因業による吾我を損減して本不生の世界に入ることを意味すると説明されている。即ち因業を滅して本不生の世界に入るのである。
このようにして五大、六大の神秘不可得を直観して毘盧遮那の世界に入我我入するとき、諸病が治癒されるわけである。吾等人間の上に覆いかぶさってくる種々の悩み、病気はこの毘盧遮那の世界に入ることによって解決されるわけである。
さて拝む方法はと云うとその目的に応じて儀軌を選ぶ。・・祖師先徳は種々の体験を基として「次第」となずけるものを作られ、今日に至っている。・・」大山公淳「中院流日用作法集伝授録」より)