悟り、鈴木大拙
禅の真髄というのは、人生および世界に関して新たな観点を得ようとするのである。それはどういう意味かというとこういうことになるのだ。禅の内面的生活に突入せんとするにはどうしても吾々毎日の生活を支配している考え方に対して大いなる転回を生じなくてはならないのである。…これは決して容易なことではないのである。火の洗礼を受けなくてはならぬのである。風荒れ、地戦き、山崩れ、岩裂ける底の経験をしなくてはならぬのである。
かくのごとく人生および世界全体に対して吾々の今までの立場を全くひっくり返して新たな観点を得るということを、普通に禅では悟りというのである。(試練に遇わなければ次のステップへ進めないということでしょう)・・いずれにしてもこの悟りというものがなくては禅というものがないといってもいいのである。・・悟りというものをどういうふうに定義するかといえば、・・普通には論理的あるいは分析的なものの見方に反対して直観的に物の真相に徹底するというのが禅だといっておこう。・・悟りを得た人にとっては此の世界は元の世界ではなくなったといっていいのである。・・いままで論理的に二元的に見えておったものがその対立の相、矛盾の相が消えて、矛盾でありながら矛盾でない境涯が開ける。・・道元禅師の「身心脱落、脱落身心」もここを表現している。・・楞厳経に「一人道を得れば虚空消隕す」とあるがこれも悟りの世界だ。(『摩訶止観論弘決纂義』巻一にも有名な「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」の句があります)。・・それから盤珪禅師の歌に「古桶の底ぬけ果てて三界に、一円相の輪があらばこそ」とある。・・悟りは周辺のない円である。それゆえ中心はどこでにでもあある。到る所が中心だ。「天上天下唯我独尊」とはこれをいうのである。・・天地は限りなく広がってまた時の究極にまで達する。今までは時間や空間に限られたと思うていたものがこの境地にいったん入るといかにも活動の自由性を体得する。そうしてこの心の活動の可能性というものがどの位にまで拡がりゆくのか想像のできぬ程になる。これが禅的修練、訓練の目的であると言うてよろしい(ここまではいかなくても瞑想により時々非常に気持ちよくなることはあります、さらに密教の修法ではそこれらの座禅の境地とはまた味わいの異なる境地を体験します。)。
禅の真髄というのは、人生および世界に関して新たな観点を得ようとするのである。それはどういう意味かというとこういうことになるのだ。禅の内面的生活に突入せんとするにはどうしても吾々毎日の生活を支配している考え方に対して大いなる転回を生じなくてはならないのである。…これは決して容易なことではないのである。火の洗礼を受けなくてはならぬのである。風荒れ、地戦き、山崩れ、岩裂ける底の経験をしなくてはならぬのである。
かくのごとく人生および世界全体に対して吾々の今までの立場を全くひっくり返して新たな観点を得るということを、普通に禅では悟りというのである。(試練に遇わなければ次のステップへ進めないということでしょう)・・いずれにしてもこの悟りというものがなくては禅というものがないといってもいいのである。・・悟りというものをどういうふうに定義するかといえば、・・普通には論理的あるいは分析的なものの見方に反対して直観的に物の真相に徹底するというのが禅だといっておこう。・・悟りを得た人にとっては此の世界は元の世界ではなくなったといっていいのである。・・いままで論理的に二元的に見えておったものがその対立の相、矛盾の相が消えて、矛盾でありながら矛盾でない境涯が開ける。・・道元禅師の「身心脱落、脱落身心」もここを表現している。・・楞厳経に「一人道を得れば虚空消隕す」とあるがこれも悟りの世界だ。(『摩訶止観論弘決纂義』巻一にも有名な「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」の句があります)。・・それから盤珪禅師の歌に「古桶の底ぬけ果てて三界に、一円相の輪があらばこそ」とある。・・悟りは周辺のない円である。それゆえ中心はどこでにでもあある。到る所が中心だ。「天上天下唯我独尊」とはこれをいうのである。・・天地は限りなく広がってまた時の究極にまで達する。今までは時間や空間に限られたと思うていたものがこの境地にいったん入るといかにも活動の自由性を体得する。そうしてこの心の活動の可能性というものがどの位にまで拡がりゆくのか想像のできぬ程になる。これが禅的修練、訓練の目的であると言うてよろしい(ここまではいかなくても瞑想により時々非常に気持ちよくなることはあります、さらに密教の修法ではそこれらの座禅の境地とはまた味わいの異なる境地を体験します。)。