(三大實録・(清和天皇)貞観三年一月二十一日に大仏修理開眼供養の詔勅がありました。斉衡二年(855)五月に地震で大仏様の頭部が落下したが、真如法親王(高丘親王)を検校として貞観三年(861)三月十四日に修理が完成し、盛大な開眼供養会が営まれました。これはその年の一月に開眼供養にむけて用意するように述べたもの。)
「是の日、山城・河内・和泉・摂津及び七道諸国司に宣詔す。近来東大寺大毘盧遮那佛を修理し奉り工夫既に成る。仍って来る三月十四日、當に无遮大會を設け荘厳の妙態を極むべし。宜しく十一日より二十日に至り殺生禁断すべし。會日に至り国分二寺に於いて各齋會を開き部内僧尼を請集し普く供養を為せ。其の料物は便ち正税を用よ。其れ大宰府観音寺に於いて之を修せ。導師をして具に事由を演ぜしめよ。兼ねて僧尼を會集せしめ俱に廬舎那仏號を称讃せしめよ。乃至無知の小民に是の會を作すを教へよ。我等知識奉る所、廬舎那を修理し、今日至心に應に供養し奉る。我亦心を運び専念同就、広く功徳を作さむ。但し先帝の本願に准拠し天皇の弘願、八幡大菩薩を以て主と為す。天下の名神及び万民を知識衆と為し初めて修理を作す。今當時に至り此の事を遂成す。始終殊なりと雖も徳業惟一、然れば則ち八幡大菩薩をして別に解脱を得しめ、諸餘の名神をして神力自在ならしむ。本願天皇及び先帝御璽乃至開闢以来の登遐聖霊、同じく薫修を頼み早く覚花を開き爰に當今に及び表裏夷晏、風雨順時、年穀豊稔、此れを以て基と為す。當に法界に遍く自他を論ぜず、終に菩提を証すべし焉。」