今日は浅間大社例祭です。浅間神社のホームページには
「例祭は、古来4月・11月の申の日に行ってきた大祭りのひとつです。明治7年太陽暦採用にあたり、その年の11月の申の日4日に例祭日を改めました。 平安時代の文人都良香(みやこノよしか)が『富士山記(ふじさんき)』で「貞観17年(875)11月初申の日に吏民旧によりて祭を行う」と記した当大社では記録に残る最も古い祭りです。
富士山の湧水で生活し、また農業・産業を営む岳麓一帯の人々が、稔りの秋に浅間大神に感謝の誠をささげるのが浅間大社の例祭です。 富士宮市内では3・4・5日の3日間、威勢の良い「富士宮囃子(ふじのみやばやし・静岡県無形文化財指定)」を奏でながら山車(だし)や屋台(やたい)を曳き回して例祭を祝います。」
「久安5年(1149)末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。当大社所蔵の絹本著色富士曼荼羅図(重要文化財)には、登山の情景が細かく描かれており、その様子を知ることができます。これによっても当時既に信仰登山が盛んに行われ、様式も整ってきていたことが分かります。
戦国時代末から江戸時代初め、長谷川角行が人穴に籠もり、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説きました。これは、関東を中心に広がり、江戸時代中期、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。」とあります。
「駿河国新風土記」巻之二十四、には「富士浅間本宮。楼門を入て左右廻廊あり。 中央に舞殿・拝殿あり。 本宮は二階につくりて外に類なき作りざまなり。 末社三の御前社・七の御前社・若御前社、本宮の東西にあり。 廻廊を出て東の方、天神社あり。 天正の乱に北條氏政放火して本宮焼失せしとき、神体を此社にうつし祭し所なりと云。 其かたはら神池なり。 池のかたはらに長屋ありて此池にて身滌する人の衣をぬぐの所なり。 富士登山の者は皆此池水に入て身滌をなす。 其水の清冷筆につくしがたし。・・ 此池の北岸高き所に大日堂あり、本地堂と云。 池の中に島あり。 其島に弁才天女の祠あり。 【和漢三才図絵】に六弁才天の其一なりと云。 其像は空海の作にて、空海此所にいたりて初て祭る所なりと云。 別当宝幢院は此池の後にあり。 池の流れ神田川となる所に板橋あり。 異様なる造にて屋根あり。 此橋上にて神事を行ふの所なりと云。 宮の左右に大宮司・案主・公文・鍵取・供僧あまたの宅あり。」とあり、「仏像図彙」には「富士権現。孝霊天皇五年に現す。駿州富士山は是三国無双の名山たり。源阿字空より出三観一心の旨を示し峯円頓を冥め三密同体理を顕す故に平城天皇[大同元年]本宮を立つ。醍醐天皇延喜に浅間を立つ大宮神也。本地大日」
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