福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

秘密安心往生要集・・33/42

2021-07-03 | 諸経
秘密安心往生要集・・33/42
(丗二、弥勒大日如来同一體の事。)
問、真言行者は直に大日法身の果を求むべし。何ぞ往生浄土を欣ふや。
答、是中品の安心なるが故に浄土を欣ふなり。然れども亦弥勒菩薩は即ち胎蔵の大日如来なれば即ち上品の悉地なり。儀軌に曰く「慈氏と大日と同一体なり。自心即ち是母地心なり。母地は即ち是れ慈氏尊なり。三種無二元一体なり(慈氏菩薩略修愈誐念誦法・集會灌頂漫拏攞品第七「灌頂説法悟無生 慈氏大日同一體 𡲼嚕左那即慈氏 一生菩薩即愈誐 自心即是母地心 母地即是慈氏尊 三種無二元一體 是故我求如實智」)」と。又曰く「実の如く自心を知るは即ち是母地心なり。初発心の時に便ち正覚を成ず(慈氏菩薩修瑜誐法・持誦眞言品第三「是故三密轉成三身。故以心置心以心觀心。如實知自心。即是母地心。初發心時便成正覺。此心發時便成普現色身三昧耶身」)」是れ大日如来と同体の本説なり。又阿字を種子とす。又弥勒を纔発心転法輪菩薩と名けて吽字を種子とし、輪宝を三昧耶形とす。是の阿吽の二字は即ち両部大日の種子にして自心出入の息なり。又光明真言の初後の阿吽の二字なり。故に常に光明真言を誦するも兜率往生の正行にして弥勒の真言なり。高野山大塔の五佛。中尊の大日如来、法界定印の上に五輪塔を安置して弥勒の形像なりしを因果不二の義、あまりに顕露なればとて弥勒院の琳賢阿闍梨、是の五輪塔を撤去玉ふといへり。此の琳賢阿闍梨も内院往生の人也。光明真言豈弥勒の呪に非ずや。又弥勒を大輪明王、金剛因菩薩と名く。大金剛輪陀羅尼は其の真言なり。故に常に大金剛輪陀羅尼を誦するも亦上生の正行なり。故に兜率の内院に往生するは直に是密厳仏国なり。又高祖大師即身成仏し玉へども外迹は内院に住し玉ふは大師即ち弥勒菩薩なり。故に臨終佛に大師の御影を安んずるなり。五色の糸も大師の右の手に掛けたらんんも然るべきか。
又四重の秘釈あり。一には浅略の釈。弥勒菩薩は過去無量阿僧祇劫の前に勝華敷世界の弥勒如来の所にして一切智光明仙人として大慈三昧光大悲海雲経を聞きて菩提心を発し、未来に成仏して吾も亦弥勒菩薩と號せんと誓ひ玉ひ、八千歳の間に修行して大慈悲心を生じ白兎の肉を食せず、身を火坑に投げて死し玉ふ。是一切智光明仙人不食肉因縁経の所説なり。(一切智光明仙人不食肉因縁経では、免王母子が七日間乞食できなかった婆羅門を救い正しい仏法を久住させるために、火聚に投身し、その肉を以て婆羅門に供養した。しかし、婆羅門は大いに悲しみ、「未來永劫、殺生せず、肉を禁食する」という誓言を立て同じく火に身を投じた)。及び法華の序品、悲華経等に説き玉へる菩薩なり。総じて顕の大小乗の所説是なり。二には深秘の釈。大日経の所説。八葉東北の迅疾持、金剛界曼荼羅の西方の四親近の中の金剛因菩薩、理趣経所説の纔発心転法輪菩薩等はs大日如来の大慈三昧を主どり玉ふ故に一切如来の大慈は皆弥勒菩薩なり。是顕教所説の一菩薩の修因感果(修行によって悟りを得ること)にあらざれば深秘なり。三には秘中の深秘の釈。此の弥勒菩薩は即ち大日如来なり。前に釈するが如し。四には秘秘中深秘の釈。此の弥勒菩薩は一切衆生の本有の一念の慈悲心なり。儒には此れを仁と名く。仁は狭く慈は広し。惻隠の心は仁の端なりとて今日の愚蒙の人も妻子を愛する一念の慈悲なきはあらず。此の一念の慈愛の心を広く法界の衆生に及ぼすは菩薩の大慈なり。弥勒菩薩白兎の身を捨てたる肉を食せず。大慈悲の心を発し、永く肉食を断じて我成仏の時には必ず肉食戒を制して重禁とすべしと誓ひ玉ふは浅略即深秘なり。故に観経に曰く「仏心とは大慈悲是也」(佛説觀無量壽佛經「一一光明遍照十方世界。念佛衆生攝取不捨。其光相好及與化佛。不可具説。但當憶想令心明見。見此事者。即見十方一切諸佛。以見諸佛故名念佛三昧。作是觀者。名觀一切佛身。以觀佛身故亦見佛心。諸佛心者大慈悲是。以無縁慈攝諸衆生」)と。極楽往生の人も慈心不殺を其の行となす。今一切衆生の本有の大慈悲心顕れて成仏するを弥勒如来と名く。然れば兜率往生を楽ふ人は設ひ余の戒を守らずとも殺生肉食の二戒を堅固に護持し大悲三昧に住すれば自心本有の弥勒菩薩顕現し玉ふが故に必ず往生するなり。弥勒成仏経を亦は慈心不殺不食肉経と名ること職として此の由なり。梵網経に曰く「肉を食する者は大慈悲の性種子を断つ」(梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷下「若佛子。故食肉一切肉不得食。斷大慈悲性種子。一切衆生見而捨去。是故一切菩薩不得食一切衆生肉。食肉得無量罪。若故食者。犯輕垢罪」)と。慈悲の種子を断つは成仏の種子を断つなり。されば成仏を求る人は必ず肉食を断ずべし。昔寒山拾得と云るは文殊普賢の化身なり。諸人の肉を食するを見て大に笑ひ玉ふを人呵責しければ「其の肉は汝が生生世世の父母兄弟、愛執の故に畜生道に堕せるを知らずして食す。我是を哀れみ啼くなり。笑ふにはあたらず」との玉へりとかや。(沙石集巻六第十七話「祈請して母の生所を知る事」にも「・・・梵網経には、『一切の男子は、これわが父。一切の女人は、これわが母。われ生々にこれにしたがひて、生を受けずといふことなし。ゆゑに六道の衆生は、みなこれわが父母なり。しかるを、殺し食するは、わが父母を殺し食するなり』と説かれたり。唐の国清寺に、拾得といひしは、豊干禅師の行者なり。ある在家人、客人をもてなさんとて、禅師に申して、拾得を呼びて、荷用なんどせさせけるに、寒山子もともなひて、行きてけり。さて、酒を飲み、肉を食ひて、楽しみ遊びけるを、寒山・拾得、二人傍らにして、けしからぬほどに笑ひければ、主も客人も、興さめてぞ思えける。主、その後、禅師にこのよしを申しければ、禅師、拾得を呼びて、『いかにかかるけしからぬことありける』と、いさめられければ、『いかでか笑ひ候ふべき。かれが先生(せんじやう)の親ども、痴愛の因縁によりて、畜類の身を受けて、今食物となれるを、親が肉とも知らずして、これを愛し、遊び戯れ、楽しみしこと、あまりに悲しく思えしかば、寒山とともに、このことを言ひて歎き侍りしを、彼らがつたなき眼にて、笑ふと見て侍るなり』とぞ申ける。知ると知らぬと、近きと遠きとこそあれ、いはば、みな父母を殺し、食するにこそ。平等の慈悲をおこし、孝養の懇志を励まして、衆生を救ひ助くべし。群類を悩し殺することなかれと」。)
又殺生に出る人路次にて出家に遇へば其の日は猟なしと云へり。是も僧は慈悲を本とする者なれば其の慈光に照らさるるが故に自ら悪業を止むなり。然れば弥勒菩薩外に求むべからず我等が今日の大慈悲心是なりと知りて念々に慈悲心を忘れず勤め策すべし。即身即佛外に求むべからず。

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