今日はブログにも出しましたが滅多にないお目出たい有難い日なので、一週間ぶりに道路掃除に出かけました。いつも掃除するバス停や駅前の植え込みなども最近はいつも誰かかが掃除しているらしくピカピカなので今日もゴミなどないだろうと思って出かけましたが,案に相違して駅前にはパックに入った餃子の食べ残しや紙切れが多数散乱し、バス停にも飲み残しの大きな缶酎ハイが三本、コーヒーのタンブラー、たばこの吸い殻も無数に散乱していました。こんなに散らかっていることは数年ぶりです。こんなにバス停が汚れていてはここで待つのを躊躇わざるをえません。来てよかったと思いました。同時に最近は道路を汚す人も少なくなりありがたいことと思っていましたが、なかなか世の中は一筋縄ではいかないということも改めて思わされました。
しかしいずれにせよこうして九牛の一毛にも及ばない功徳でもコロナで困窮している人にすこしでも廻向できればこんな有難いことはないのだが・・と思いつつ帰ってきました。
掃除の功徳については「釈氏要覧」に次のようにありました。
『掃地、仏、逝多林におわすとき地不浄なるを見て衆生を樂福ならしめ勝福田に淨業を植えんと欲して、仏即ち自ら箒をとり掃はんとす。時に大聲聞見て、皆箒をとりて共に掃く。仏曰く、およそ掃くことについていわば、地に五勝利あり。一には自らの心を清淨にす。二には他者の心をして清淨ならしむ。三つには諸天歡喜す。四つには端正業を植える。五には命終して當に天上に生まれる。阿含経にいわく、仏、朱利槃特(しゅりはんとく・・愚かで自分の名前もかけなかった弟子)に「掃箒」の字を誦することを教える。仏いわくこの掃箒また名ずけて除垢となす。槃特是の思惟を作す。垢とは灰土瓦石也。除くとは清淨にすることなり也。佛此の教誨をもって我に思をもって 結縛の垢を除くなり。此の便によって阿羅漢と成る。』