『続日本紀』「天平十三年正月」「丁亥(十五日)、故太政大臣藤原朝臣家、食封五千戸を返上す。二千戸は旧に依って其の家に返し給ひ、三千戸は諸国の国分寺に施入す。丈六の仏像を造る料に充つ」
天皇は聖武天皇。「国分寺造立の詔」は 『続日本紀』に「天平十三年三月乙巳24日」とありますから、これより先に国分寺は実際に存在したことになります。 . . . 本文を読む
今日は小正月です。先祖のミタマをわけていただく日です。
「続宗教と民族」(五來重)「注意深い人は正月の仏教行事が小正月といわれる十四日・十五日に集中していることに気つ゛くに違いない。結局正月といえども仏事はきわめて多いのであって、神事としての正月と、仏事としての正月は日がずれているにすぎないのである。しかも暦法の歴史は満月を以て月のはじめとしていたのが原始的な形であることを教えている。だから七月 . . . 本文を読む
「日本書紀推古天皇」「元年593春正月壬寅朔丙辰(15日)佛の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く」
(以下ウキぺデアを引用。『日本書紀』によると、法興寺(現在の飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したもの。1956年、飛鳥寺周辺の発掘調査により、法興寺の遺構が現れた。そして今は失われた仏塔の芯礎から、木箱に収められた舎利容器が発見された。舎利は593年に . . . 本文を読む
今日15日は西大寺光明殿で「新春初釜大茶盛式」が行われます。以下西大寺のホームページ等によります。「大茶盛式は、西大寺伝によると、暦仁2年(延応元年・1239)1月16日、叡尊上人が西大寺八幡宮に献茶した余服を民衆に振る舞ったことに由来する伝統行事。「戒律復興」をめざした叡尊上人が不飲酒戒の実践として酒の代わりに茶盛としたことと、「民衆救済」の一貫として当時は高価な薬と認識されていた茶を民衆に施す . . . 本文を読む
今日は慈覚大師円仁ご入滅の日です。慈覚大師円仁は延暦13年(794年)生まれ で貞観6年1月14日(864年2月24日))に入滅されています。第3代天台座主です。若き日、不治の病を法華経の写経により霊夢を見て完治した円仁は横川の根本如法堂を建立しています。43歳から渡唐をはじめやっと45歳で入唐、54歳で帰国。招来した仏典は五八四部八〇二巻に及び、金剛界胎蔵界の両界曼荼羅などの密教法具を持ち帰って . . . 本文を読む
お釈迦さまが「法華経」「観無量寿経」等を説かれた霊鷲山は場所不明でしたが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞の第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を発見、仏典上の霊鷲山と確定しています。これは、数年後もインド考古局第3代目の長官ジョーン・マーシャルの調査によって国際的に承認されています。今から10年前には当方も浅井先生に引率していただき霊鷲山のお参りと清掃をさせていただきました。大 . . . 本文を読む
「公事根源」
「御斎會の内論議 十四日
十四日は御斎會の結願なり。内論議は御殿(清涼殿)にて行はる。御物忌の時は南殿にてあり。問者、講師などありて御前にて論議すれば内論議とは申すなり。孝徳天皇白雉三年652四月に恵隠沙門を内裏に召されて無量義経を講ぜらる。沙門恵資を論議者として一千人の沙門、作聴者たりと日本紀に記せり。又(醍醐天皇)天長十年833正月二十四日延暦寺の僧圓澄を召して論議ありと見 . . . 本文を読む
扶桑略記(天平二十一年一月十四日)「平城中島宮に於いて、大僧正行基を請して、其の戒師と為し、太上天皇(第四十五代聖武天皇)菩薩戒を受け、勝満と名く。中宮受戒し、徳太と名づく。皇后(光明子)受戒し、万福と名づく。即日、大僧正を改め、名づけて大菩薩という。」 . . . 本文を読む
・・・「菩提心とは如何」というに、それに対して如来は「実の如く自心を知る也」と答え、続いて「自心とは如虚空の相」にして「自らに尋求すべきもの」と答えておられる。( 「祕密主云何が菩提とならば、謂く、如實知自心なり」。祕密主、是の阿耨多羅三藐三菩提は乃至彼の法として少分も得べきことあることなし。何以故。虚空の相は是れ菩提なり。知解の者もなく亦た開曉のものもなし。何を以っての故に、菩提は無相なるが故に . . . 本文を読む
釈雲照師「十善業道経講義」
「十善業道経に『忍辱の荘厳のゆえに仏の円音を得て衆の衆好を具し』とある・・(以前、「忍辱」とはいかにも消極的な言葉で前近代的で好きになれませんでしたが先日アップしたようにパラリンピアンの「状況を受け入れることは限界を受け入れることではない」という言葉に出会い、この「忍辱」というのはまさにこれであろうと思いました。状況は受け入れるがそこに甘んじるのではなく果敢に状況に挑 . . . 本文を読む