(承前。 釧路の野外彫刻55はこちら)
※表題と文中の作品名が一部食い違っていたので、文中に合わせました(20日夜)
さて、釧路芸術館を出てから、次に乗るバスの時刻まで20分余りあります。
もう1カ所、ギャラリーや美術館に立ち寄る時間はありませんが、釧路市役所の中庭に彫刻があったはずだということを思い出し、ちょうどこれから歩く道筋の途中だということもあり、足を運ぶことにしました。
市庁舎には、土日祝日は入りにくいと推察されます。
中庭には、釧路出身の彫刻家・斎藤一明(1930~2000)の人物像5点が展示されていました。
現地にあった解説の看板(下に画像をあげます)によると、手前3点が「刻」。
中央の胸像が「少女像」。
右奥が「凍土 II」。
残念ながら、中庭へと出るドアが見つかりません。
窓越しの鑑賞となります。
「刻」は釧路市阿寒町行政センターにあるものと同系列の、極度に細長い首です。
ジャコメッティの影響を感じさせますが、首だけがナイフのように立っているさまは、むしろモアイ像などのほうが近いともいえそうです。
道教育大釧路校の福江良純さんが公開している論文「釧路市における彫刻教育活動の史的調査および教育方法に関する基礎的・理論的研究」(リンク先はpdf ファイル)によると、斎藤は彫刻に関してはほぼ独学とのことです。
しかし、後年、同校で非常勤講師を務めるかたわら、自宅で絵画教室を開き、さらに釧路市交流プラザさいわいで彫塑の講習会を持っていたそうです。同論文によれば、とくに交流プラザの受講生からの人望は厚かったといいます。
「少女像」は一般的な首というか胸像であり、この作者としてはめずらしいタイプです。
なお、この3点は、サイト「北海道デジタル彫刻美術館」には記載がありません(この記事をアップした2024年12月に閲覧)。
また「少女像」については、日本全国を歩き回って野外彫刻の画像を掲載している稀有なブログ「かけらを集める(仮)」には、どういうわけか「凍土 II」と記されています。
一方「立像」のほうは、朴訥な感じの、表情がはっきりしない人物の全身像です。
こちらは、他の斎藤作品に共通する作風です。
長いワンピースかドレスを着て立っている女性なのでしょう。
斎藤一明は1930年(昭和5年)生まれ。
64年に全道展で知事賞を受けて、72年に会員に推挙されます。
また全国的な団体公募展のなかでも有力な国画会にも67年から出品し、75年に新海賞を受賞して、76年に会友となっています(95年退会)。
解説にはありませんが、地元の公募展である釧美展にも出品を続けていたそうです。
札幌彫刻美術館が隔年で開いていた「北の彫刻展」には1982年の第1回から9回連続で出品しており、このことは、彼が道内を代表する彫刻家のひとりとして認知されていたことになると思われます。
個展は71年と84年、88年に釧路(88年は画廊丹青)、81年と93年に札幌(93年は大同ギャラリー)で開いています。
解説パネルには、彼が1994年の第7回北の彫刻展に寄せたとおぼしきテキストが記されています。
以下に引きます。
わかったようで何が言いたいのかいまひとつわからない文章で、とくに1行目の「追い求めた」は「追い求めたい」のような気もします。
釧路市庁舎は、玄関の横に「日本国憲法」の前文のパネルがあったり(ただし観光PRのぼりの後ろで見づらくなっている)、スチーム暖房があったり、なかなか古くて味のある建物で、機会があったら地下の食堂なども行ってみたくなりました。
さて「十字街7丁目」の停留所で、くしろバス「36 白糠線」を待ちます。
次の目的地は、釧路市大楽毛。
行ってみたい所があったのです。
□斉藤一明の世界 http://www.marimo.or.jp/~chezy/porte/index.html(斉藤は、原文ママ)
過去の関連記事へのリンク
斎藤一明「刻」 釧路の野外彫刻(32)
斎藤一明「まほろば」 釧路の野外彫刻(31)
※表題と文中の作品名が一部食い違っていたので、文中に合わせました(20日夜)
さて、釧路芸術館を出てから、次に乗るバスの時刻まで20分余りあります。
もう1カ所、ギャラリーや美術館に立ち寄る時間はありませんが、釧路市役所の中庭に彫刻があったはずだということを思い出し、ちょうどこれから歩く道筋の途中だということもあり、足を運ぶことにしました。
市庁舎には、土日祝日は入りにくいと推察されます。
中庭には、釧路出身の彫刻家・斎藤一明(1930~2000)の人物像5点が展示されていました。
現地にあった解説の看板(下に画像をあげます)によると、手前3点が「刻」。
中央の胸像が「少女像」。
右奥が「凍土 II」。
残念ながら、中庭へと出るドアが見つかりません。
窓越しの鑑賞となります。
「刻」は釧路市阿寒町行政センターにあるものと同系列の、極度に細長い首です。
ジャコメッティの影響を感じさせますが、首だけがナイフのように立っているさまは、むしろモアイ像などのほうが近いともいえそうです。
道教育大釧路校の福江良純さんが公開している論文「釧路市における彫刻教育活動の史的調査および教育方法に関する基礎的・理論的研究」(リンク先はpdf ファイル)によると、斎藤は彫刻に関してはほぼ独学とのことです。
しかし、後年、同校で非常勤講師を務めるかたわら、自宅で絵画教室を開き、さらに釧路市交流プラザさいわいで彫塑の講習会を持っていたそうです。同論文によれば、とくに交流プラザの受講生からの人望は厚かったといいます。
「少女像」は一般的な首というか胸像であり、この作者としてはめずらしいタイプです。
なお、この3点は、サイト「北海道デジタル彫刻美術館」には記載がありません(この記事をアップした2024年12月に閲覧)。
また「少女像」については、日本全国を歩き回って野外彫刻の画像を掲載している稀有なブログ「かけらを集める(仮)」には、どういうわけか「凍土 II」と記されています。
一方「立像」のほうは、朴訥な感じの、表情がはっきりしない人物の全身像です。
こちらは、他の斎藤作品に共通する作風です。
長いワンピースかドレスを着て立っている女性なのでしょう。
斎藤一明は1930年(昭和5年)生まれ。
64年に全道展で知事賞を受けて、72年に会員に推挙されます。
また全国的な団体公募展のなかでも有力な国画会にも67年から出品し、75年に新海賞を受賞して、76年に会友となっています(95年退会)。
解説にはありませんが、地元の公募展である釧美展にも出品を続けていたそうです。
札幌彫刻美術館が隔年で開いていた「北の彫刻展」には1982年の第1回から9回連続で出品しており、このことは、彼が道内を代表する彫刻家のひとりとして認知されていたことになると思われます。
個展は71年と84年、88年に釧路(88年は画廊丹青)、81年と93年に札幌(93年は大同ギャラリー)で開いています。
解説パネルには、彼が1994年の第7回北の彫刻展に寄せたとおぼしきテキストが記されています。
以下に引きます。
現代
人間の持つ智的な欲望は、限りなく可能性を追い求めたものらしい。
いながらにして望みがかなう、マルチメディアも、その一つと云えるだろう。
アメリカより遅れること、10年とも、15年とも云われた日本。
それは喜ぶべきことなのか、残念と思うべきことなのか。
快適さと合理性を求めて一気に駆け抜ける時代。
そして今、なぜかグレゴリオ賛歌がブームなのだと云う。
『動物的な中の人間と、人間的な中の動物』。
ありふれたこのテーマは、たえず問われるべきだろう。
わかったようで何が言いたいのかいまひとつわからない文章で、とくに1行目の「追い求めた」は「追い求めたい」のような気もします。
釧路市庁舎は、玄関の横に「日本国憲法」の前文のパネルがあったり(ただし観光PRのぼりの後ろで見づらくなっている)、スチーム暖房があったり、なかなか古くて味のある建物で、機会があったら地下の食堂なども行ってみたくなりました。
さて「十字街7丁目」の停留所で、くしろバス「36 白糠線」を待ちます。
次の目的地は、釧路市大楽毛。
行ってみたい所があったのです。
□斉藤一明の世界 http://www.marimo.or.jp/~chezy/porte/index.html(斉藤は、原文ママ)
過去の関連記事へのリンク
斎藤一明「刻」 釧路の野外彫刻(32)
斎藤一明「まほろば」 釧路の野外彫刻(31)
(この項続く)