まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

うどん屋に さりげなく挿す すすきの穂

2013年10月19日 | たまには真剣な研究なども

 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、雨が降っていた。それがほぼ1日中続いた・・・。明日もこんな天候らしい。今日の気温は14度から19度、湿度は92%から66%。風は2mから3mの南南西の風。おかげでセーターを一日中羽織っていた。

 

 雨は小雨が断続的に降り注いでくるという感じ。大きな雨ではないが、そうそう、梅雨時の雨みたいなもの。おかげで今日も引き籠もり状態。

  

 来月の九日・十日がしわく広島でのふれ愛まつり(文化祭)だから、少しは展示物の用意でも・・・ということで、資料づくり・・・。

 

 イギリス士官レキに関する画像や資料が約85点ほど。これをパネルにしたり、ポスターにしたら展覧会か資料館のようになってしまう。

 

 そこで、何冊かのファイルに収めて見て頂くことにする。そのほかに論文集とか冊子とかの資料やチラシも用意して・・・。

 

 これがその、チラシの一部。両面印刷で配布用にしたいものだ。

 

 この案内板には、こんなことが書いてある。

 慶応二年(1866)英国の軍艦セルビア号が瀬戸内海の航路を測量中士官のレキが死亡した。そこで近くの広島に着け遺骸を江の浦の西のはずれの人里離れたところに葬り十字架の墓標を建てて去った。明治元年(1868)に江の浦の庄屋の岡良伯という人が英国士官の霊をあわれんで長谷川三郎兵衛という日本人の仮の名を付けて寺院の過去帳に記載し墓碑を建てて菩提を弔うようにした。後に英国より感謝状が送られて来た。

                          丸亀市教育委員会

 

 それを修正したならば、こうなった。

  明治元年(1868)英国の調査船マニラ号が瀬戸内海の燈台用地を調査中、士官候補生のレイクが死亡した。そこで近くの広島に着け、遺骸を江の浦の西のはずれの人里離れたところに葬り、十字架の墓標を建てて去った。明治四年(1872)に江の浦の庄屋の岡良伯と寺脇儀右衛門が図って、英国士官の霊をあわれんで長谷川三郎兵衛に頼まれていた墓碑を建てて菩提を弔うようにした。このことを伝え聞いたシルビア号のセント・ジョン艦長が感謝状を送り、後に英国公使アーネスト・サトウからも感謝状が送られて来た。

 

 ということになるらしい。おおまかにまとめ上げれば・・。

 

 今日は雨降りだから遠くへは行かずに、町内の「杉本うどん」にした。雨の土曜日だから客は少なかった。ま、時間も早いのだけれど。

 

 で、今日はかけうどん小(180円)+野菜の掻き揚げ天(100円)+いなり寿司(90円*2)で、460円だった。ここは麺が太くて硬いからしっかりとしたおなかになった。

 

 午後からも、似たような作業の繰り返し。それをまた、どういう順番で、どのような説明をつけるかで一思案。私の場合、考えて実行するのじゃなくて、やってから考えるタイプだから、どうしても手間がかかってしまう。

 

 ということで、秋の日はつるべ落とし。あっという間に日が暮れる。

 

 今日の掲示板はこれ。「身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと いま、ここに生きていることの尊さを味わいました」というもの。

 

つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました

あやまちや失敗を繰り返したおかげで
少しずつだが人のやることを
暖かい眼で見られるようになりました

何回も追いつめられたおかげで
人間としての自分の弱さとだらしなさを
いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で親切な人間の暖かさも知りました

そして・・

身近な人の死に逢うたびに
人のいのちのはかなさと
いま ここに生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました

            あいだみつを

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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