ここからは、2025年1月23日から静岡、愛知、三重に行ってきましたので、順次一日2回の投稿を再開したいと思います
安居地区は、静岡市役所の東南東約8km、駿河区役所の東躍5kmのところ、久能山東照宮から南西側の太平洋沿いの地区です
駿河区役所南側の「駿河区南八幡町」信号を北東へ、SBS通りです
約800mの「駿河総合高校前」信号を右(南東)へ、県道384号久能街道です
約2.4km太平洋岸の「大谷放水路西」信号を左(東北東)へ、国道150号線です
約2.5kmの「古宿」信号を左(北)へ入り、直ぐに右(東北東)へ、国道と平行に進む細い久能街道(国道150号線の古道に当たる道路)です
約1,1kmで左手に石蔵院の参道が南向きに開いています
「安居山 石蔵院」の寺号標です
すぐ左に東向きに建つ「井出八郎右衛門の墓」です
説明版です
石蔵院と井出八郎右エ門
元和2年(1616年)4月17日、将軍職を秀忠に譲った後も、大御所として君臨していた徳川家康が、75年の波らんに富んだ生涯を駿府城で終え、遺言により、その亡きがらが久能山に葬られることになった。
4月19日、葬儀の行列が、この石蔵院の前を通り過ぎた後、一人の武士が割腹して果てた。この武士が井出八郎右エ門である。
井出八郎右エ門は、家康の厩の舎人(乗馬の口取りなどを勤めた役人)であったが、永年の知遇に報いるため、この石蔵院の門前で、家康葬儀を目のあたりに見て割腹殉死したのである。
舎人という身分の低い武士であはったが、家康から受けた永年の恩顧を忘れなかった井出八郎右エ門の忠誠心は、後の世までも人々の語り草となっている。
久能街道に面した石蔵院所有地の一角には、井出八郎右エ門の墓(右)や地蔵堂(中央)と並んで、彼の忠誠心に心を打たれた多くの人々の手によって、昭和の初期、顕彰碑(左)が建てられたのである。
静岡市
石蔵院の参道です、参道を進むと
山門です
山門脇の道路沿いに駐車スペースがあります
山門に左手境内に目的の「お葉付きイチョウ」です
山門を入ると右手に六地蔵様です
南東側からお葉付きイチョウです
南側から見上げました
東側から
説明版です
静岡県指定天然記念物
石蔵院のお葉付イチョウ
昭和29年1月30日指定
目通り 4.7m、樹高 30m、根廻 6m、枝張 南北 22m・東西 21m
慶長年間(1596~1615)に石蔵院の開山良尊禅師の手植えと伝えられている。
このイチョウは、雌木で葉の上に結実する現象が見られる。このようなお葉付イチョウは全国に極めて少なく、植物形態学上の資料として貴重なものである。
昭和59年5月31日
静岡市教育委員会・静岡県教育委員会
*2025年1月30日(投稿日)は、昭和29年(1954)1月30日の指定日から71年となりました
幹や枝には多くの「乳柱(気根)」が見られます
本堂前から見ました
本堂です
鐘楼です
イチョウの南側には「拓友之碑」です
説明板です
聖鍬の魂
われわれ262名は、昭和19年5月19日、満州開拓青年義勇隊として、神田定中隊長を聖鍬の師と仰ぎ、旧満州国東満総省勃利県勃利訓練所第2大隊第7中隊に入所した。
思えば当時14・5才の、紅顔可憐な少年ではあったが、その双肩には鍬の戦士として、戦時下の国策である北辺の護りと食糧増産という重い使命がかかっていたのである。
終戦により、大志なかばにして使命は破れ果てたが、生死をとのにした拓友の絆は固く、今もなお、開拓の精神は、われわれの胸の中に生きている。
ここに、異国の丘に骨を埋めた友の霊、安かれと祈り、若き日の純粋な情熱を偲び、あわせて永遠の平和な世を希い、同志の浄財と汗により茨城県内原訓練所入所の日を卜して聖鍬の魂の碑を建てる。
昭和46年3月15日 神田中隊拓友同志
*満州開拓青年義勇隊は、一般的(Wikipedia)には「満蒙開拓青少年義勇軍 」とされ、日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満洲国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態です。
朝日新聞デジタルの記事には、生還された方の取材記事がのっています
では、次へ行きましょう
2025・1・23・7・50
安居地区は、静岡市役所の東南東約8km、駿河区役所の東躍5kmのところ、久能山東照宮から南西側の太平洋沿いの地区です
駿河区役所南側の「駿河区南八幡町」信号を北東へ、SBS通りです
約800mの「駿河総合高校前」信号を右(南東)へ、県道384号久能街道です
約2.4km太平洋岸の「大谷放水路西」信号を左(東北東)へ、国道150号線です
約2.5kmの「古宿」信号を左(北)へ入り、直ぐに右(東北東)へ、国道と平行に進む細い久能街道(国道150号線の古道に当たる道路)です
約1,1kmで左手に石蔵院の参道が南向きに開いています
「安居山 石蔵院」の寺号標です
すぐ左に東向きに建つ「井出八郎右衛門の墓」です
説明版です
石蔵院と井出八郎右エ門
元和2年(1616年)4月17日、将軍職を秀忠に譲った後も、大御所として君臨していた徳川家康が、75年の波らんに富んだ生涯を駿府城で終え、遺言により、その亡きがらが久能山に葬られることになった。
4月19日、葬儀の行列が、この石蔵院の前を通り過ぎた後、一人の武士が割腹して果てた。この武士が井出八郎右エ門である。
井出八郎右エ門は、家康の厩の舎人(乗馬の口取りなどを勤めた役人)であったが、永年の知遇に報いるため、この石蔵院の門前で、家康葬儀を目のあたりに見て割腹殉死したのである。
舎人という身分の低い武士であはったが、家康から受けた永年の恩顧を忘れなかった井出八郎右エ門の忠誠心は、後の世までも人々の語り草となっている。
久能街道に面した石蔵院所有地の一角には、井出八郎右エ門の墓(右)や地蔵堂(中央)と並んで、彼の忠誠心に心を打たれた多くの人々の手によって、昭和の初期、顕彰碑(左)が建てられたのである。
静岡市
石蔵院の参道です、参道を進むと
山門です
山門脇の道路沿いに駐車スペースがあります
山門に左手境内に目的の「お葉付きイチョウ」です
山門を入ると右手に六地蔵様です
南東側からお葉付きイチョウです
南側から見上げました
東側から
説明版です
静岡県指定天然記念物
石蔵院のお葉付イチョウ
昭和29年1月30日指定
目通り 4.7m、樹高 30m、根廻 6m、枝張 南北 22m・東西 21m
慶長年間(1596~1615)に石蔵院の開山良尊禅師の手植えと伝えられている。
このイチョウは、雌木で葉の上に結実する現象が見られる。このようなお葉付イチョウは全国に極めて少なく、植物形態学上の資料として貴重なものである。
昭和59年5月31日
静岡市教育委員会・静岡県教育委員会
*2025年1月30日(投稿日)は、昭和29年(1954)1月30日の指定日から71年となりました
幹や枝には多くの「乳柱(気根)」が見られます
本堂前から見ました
本堂です
鐘楼です
イチョウの南側には「拓友之碑」です
説明板です
聖鍬の魂
われわれ262名は、昭和19年5月19日、満州開拓青年義勇隊として、神田定中隊長を聖鍬の師と仰ぎ、旧満州国東満総省勃利県勃利訓練所第2大隊第7中隊に入所した。
思えば当時14・5才の、紅顔可憐な少年ではあったが、その双肩には鍬の戦士として、戦時下の国策である北辺の護りと食糧増産という重い使命がかかっていたのである。
終戦により、大志なかばにして使命は破れ果てたが、生死をとのにした拓友の絆は固く、今もなお、開拓の精神は、われわれの胸の中に生きている。
ここに、異国の丘に骨を埋めた友の霊、安かれと祈り、若き日の純粋な情熱を偲び、あわせて永遠の平和な世を希い、同志の浄財と汗により茨城県内原訓練所入所の日を卜して聖鍬の魂の碑を建てる。
昭和46年3月15日 神田中隊拓友同志
*満州開拓青年義勇隊は、一般的(Wikipedia)には「満蒙開拓青少年義勇軍 」とされ、日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満洲国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態です。
朝日新聞デジタルの記事には、生還された方の取材記事がのっています
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2025・1・23・7・50
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