閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

新年早々、あるいは 暮から・・。

2013-01-15 15:29:20 | 日記
正月もアッという間に過ぎました。一体何をしたのか覚えが無い。 暮から次々と「本を処分したい」という
話がいくつも舞い込みました。いずれも帰省してきて 「我が家の本を何とかしなければ」ということなのだが、
ほんの数日の間に引き取ってくれという話が殆ど。こっちも休みを予定しているのに「そんな無茶な」という返事に
なりますよね。 内容が又色々 結局殆どお断りせざるを得なかったのだが 数少ない「見せてもらいに」行った
のがちょっとすごかった。「どうしても」というので31日の夕刻暗くなってからである。6畳くらいのところに文庫・新書・四六版の小説ばかりところ狭しとおいてあった。親子兄弟の10年間くらいの本である、800冊位はあったのではなかろうか。全部今風の大衆小説、SFが少し、タレントの随筆など。一見して「評価できるものがありませんが」というと「ブックオフよりは高く買うてくれるやろう、初版が一杯あるし、絶版も混じっとるけん」
 議論の余地無しですね。宮部、有栖川、赤川、泡坂、綾辻etc. 其の新書、文庫の何処が「初版」「絶版」か。
 結局ある劇作家のものとH.P.Bを少しだけ分けてもらって退散。 
 もう1件は 此れも尋常ではない。3坪の一戸立ちプレハブに 四方の壁は手の届くまで、あとは眼の高さまで、みっちりと本をつめこんだ函・函・函、そして書棚、3段ボックス。入り口に立つスペースしかない。全然入れない。所持者本人が収納したのではなく亡くなった後にまったく本を知らない家人が 詰められるだけ詰め込んである。しかも全集、揃ものまったく関係無しに手当たり次第に詰め込んであって一体何処まで箱を開ければわかるか見当もつかない、第一拡げる場所が無い。
 話を聞けば 前所有者は小生も見知っている方で、どんな本を集めていたかの見当がつくことは一安心。そこで美術館図録、レコード、雑誌、大型本を第一回目で出して いくらか空間をつくることが出来たが さて尚問題が・・・。
 本を大事にする習慣は大変美しいことです。がしかし、それも限度というものがあるということです。彼の本は殆どが買った時の書店のカバーをわざわざ帯を外にしてかけ、ビニールカバーも其の下に紙でカバー、尚 ご丁寧に紙袋に入れてまである。要するに紙カバーを2度はぐらないと中身何かわからない。大変な手間を喰います。数年前も全部に紙カバーをかけた蔵書を手がけたけどこのときは「揃もの」が無かったのでまだ良かったが今回は半分以上が揃ものでまったくいちいち確認しなければ分けようが無い。おかげで本自体は殆どが美本。これはあり難いが、宮沢賢治が2冊たりない、靖が三冊、大仏が一冊、寛次郎が、水上が、谷崎が、檀が、三島が、中也が・・・。全部で何十セットあるのやら、端本が累々。
 電気を切ってあるので曇ってもダメ、寒い、カビとホコリでくしゃみの連発。ついに風邪を引いてしまった。連日2時間くらいいって少しずつ箱を開けているが、「急ぎません」といわれても整理の手間賃は幾ら請求できるのだろうかそれが問題だ。
 古本屋は 「肉体労働者」です。 「100年前の本しか扱いません」とは何時になったら・・・・。 
コメント
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