「天は二物を与えず」というけれど、世の中には「二物」を持っている人はいるものだと 以前に書いたことがある。 先日カルタのあれこれのついでにと思って手にした「いろは歌の誕生・光田慶一」(武蔵野書院)という本を見てその思いを新たにした次第。
この著者は「伊呂波歌」の作者について、俗説の空海はもとより、今日、通説となっている空也や千観らの僧兵たちの作ではなく古今集の歌人・物部良名であると言い出して 学会に波紋を投げかけるいくつかの論文を出している。
論じられているのは同時代の歌の数々を、古音韻や言語学、アナグラム・パングラムなどを駆使して歌意の裏の裏まで 引きはがすと言った様子の論証で とてもするすると読めるものではなくて 半分はとばして読むしかなかった。その論証の具合を見て、相当に理詰めで、パソコンに習熟した人だと思った。それが間違いではない事は付録の身辺雑記と経歴を見て驚きというか納得というか。 本職はもともと理系も理系、化学のそれもバイオテックの分析などの専門家であった。「伊呂波歌」の探索は彼にとっては「余技・趣味」なのだ。
身辺雑記に書かれた、湯川秀樹と朝永振一郎との関係は今まで知らなかったが、湯川氏の出自などを考えれば さもあらんかという話で大変興味深かった。柳田と南方、折口の、また坪井正五郎などとの関係など他の人でも以前から知っていることもある。この手のライバルや敵対関係、あるいは同志、子弟、先輩・後輩などの関係の余談・雑学は 生身の人間がやってることだとよくわかるので分野に限らず大いに興味あるところだし、知ることによって彼等の造った原理、公式、他の業績がより身近なものに感じられる。
本題に戻ると、「天は二物を与えず」では無いひとがいるという「例」を近々に手にした本で紹介しました。中世の和歌の確立したころの日本語に興味のある方はどうぞご覧あれ。
この著者は「伊呂波歌」の作者について、俗説の空海はもとより、今日、通説となっている空也や千観らの僧兵たちの作ではなく古今集の歌人・物部良名であると言い出して 学会に波紋を投げかけるいくつかの論文を出している。
論じられているのは同時代の歌の数々を、古音韻や言語学、アナグラム・パングラムなどを駆使して歌意の裏の裏まで 引きはがすと言った様子の論証で とてもするすると読めるものではなくて 半分はとばして読むしかなかった。その論証の具合を見て、相当に理詰めで、パソコンに習熟した人だと思った。それが間違いではない事は付録の身辺雑記と経歴を見て驚きというか納得というか。 本職はもともと理系も理系、化学のそれもバイオテックの分析などの専門家であった。「伊呂波歌」の探索は彼にとっては「余技・趣味」なのだ。
身辺雑記に書かれた、湯川秀樹と朝永振一郎との関係は今まで知らなかったが、湯川氏の出自などを考えれば さもあらんかという話で大変興味深かった。柳田と南方、折口の、また坪井正五郎などとの関係など他の人でも以前から知っていることもある。この手のライバルや敵対関係、あるいは同志、子弟、先輩・後輩などの関係の余談・雑学は 生身の人間がやってることだとよくわかるので分野に限らず大いに興味あるところだし、知ることによって彼等の造った原理、公式、他の業績がより身近なものに感じられる。
本題に戻ると、「天は二物を与えず」では無いひとがいるという「例」を近々に手にした本で紹介しました。中世の和歌の確立したころの日本語に興味のある方はどうぞご覧あれ。