閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「天は二物を・・・」

2012-03-29 14:06:32 | 日記
「天は二物を与えず」というけれど、世の中には「二物」を持っている人はいるものだと 以前に書いたことがある。 先日カルタのあれこれのついでにと思って手にした「いろは歌の誕生・光田慶一」(武蔵野書院)という本を見てその思いを新たにした次第。
 この著者は「伊呂波歌」の作者について、俗説の空海はもとより、今日、通説となっている空也や千観らの僧兵たちの作ではなく古今集の歌人・物部良名であると言い出して 学会に波紋を投げかけるいくつかの論文を出している。
 論じられているのは同時代の歌の数々を、古音韻や言語学、アナグラム・パングラムなどを駆使して歌意の裏の裏まで 引きはがすと言った様子の論証で とてもするすると読めるものではなくて 半分はとばして読むしかなかった。その論証の具合を見て、相当に理詰めで、パソコンに習熟した人だと思った。それが間違いではない事は付録の身辺雑記と経歴を見て驚きというか納得というか。 本職はもともと理系も理系、化学のそれもバイオテックの分析などの専門家であった。「伊呂波歌」の探索は彼にとっては「余技・趣味」なのだ。
 身辺雑記に書かれた、湯川秀樹と朝永振一郎との関係は今まで知らなかったが、湯川氏の出自などを考えれば さもあらんかという話で大変興味深かった。柳田と南方、折口の、また坪井正五郎などとの関係など他の人でも以前から知っていることもある。この手のライバルや敵対関係、あるいは同志、子弟、先輩・後輩などの関係の余談・雑学は 生身の人間がやってることだとよくわかるので分野に限らず大いに興味あるところだし、知ることによって彼等の造った原理、公式、他の業績がより身近なものに感じられる。
 本題に戻ると、「天は二物を与えず」では無いひとがいるという「例」を近々に手にした本で紹介しました。中世の和歌の確立したころの日本語に興味のある方はどうぞご覧あれ。
 
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2012-03-13 19:49:24 | 日記
毎日 書いてやろうと 言う意気込みだったのですが、前言訂正します。
なかなか書けない という現実に直面しました。時間的なことはもとより、
書くことに「責任」ありとなると いいかげんな事は書けない(当然ですが)
となると 引用も気をつけることになるし・・・・。という言い訳・・・。
 先日の昼下がり、とっても綺麗なお嬢さんが来店! 「こんにちは」と
言って後は黙って本を 見て、しばらく書棚を流してのち 「この本いくら
ですか? 何処に値段が書いてありますか?」と。  これはすばらしい
「古本屋のお客様」です。 何が言いたいか といえば、まず「黙って我が店の
本を見る」という態度なのです。これまでもお客さんの対応について色々
書いたし、これからも書くでしょう。でも四十年間の経験 足すに親父が
言っていたことを足すと60年にわたる店頭の経験から、店に入ってくるなり
「××は無いだろうね」と切り出す人は まず「ダメ」これは確信。
 反対に 黙って、まず書棚の品物を見る人、これは脈あり。大事な人です。
これも確信。双方とも、例はたくさんあります、あればこそ「確信」といえ
るのです。
 解りやすい人の例を紹介します。向坂逸郎さんです。同郷の方で、
江戸時代に我が家とある関係のあった家柄で、父とは大学は違っても地方の
数少ない「帝大卒」とあって、大牟田に帰るたびにわが店に立ち寄って
いただいたのですが、彼は「やあ元気かね」と言って入ってくるなり
外套などをお付の人に預けると、店の隅からスミまでまさに「舐める如く」
一冊一冊見た上で、やっと安心したという感じで、「古賀さんこのころ
古本はどうかね?」という具合。天下に名だたる経済学者にしてこの態度。
 其の背後に金魚のフンの如くついて回っている連中はただ 口を開いて
眺めるだけ、教授が手に取るごとに首を突っ込んで「一体なんだ?」
という事はあっても,彼等が其の本を手にすることはまず無い。
 本当に「本」を必要としている人たちは 店主といえども信頼していな
い。まったく自分の目で確かめなくては居れないものだということを
いいたかったのです。冒頭の彼女はそういう世界の人ではないが、それでも
見知らぬ古本屋に来て、まづは「店頭の品を見る」という、「古本屋での節度」
をわきまえてくれた人で 久しぶりに 安堵した次第。後の話も素敵な
 彼女でした。久々に さわやか気分。
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