「危機に瀕する蔵書文化」という大仰な記事の見出しもいかがなものか。 紀田順一郎氏が、もう十数年前になるだろう、震災を恐れて岡山かどこかの山中に書庫を立て蔵書を引っ越しさせた、という記事を見た。その時も 彼の仕事からしてそんなに大量の蔵書が必要なことを不思議に思った覚えがある。 わが仕事はもとより古本・古書の扱いだけれど、この30年間に出た本で「古典・資料・引用」として後世に残る本がどれだけあるだろうか、それは「質」の問題だけではなく「出版量」の問題でもあって、何しろ多すぎる、の一言。戦前の出版事情を見れば歴然。もともと今に比べれば点数も発行数も少ない、しかも「関東大震災」をはじめとする地震、大火、水害そして極め付きは空襲。これらを乗り越えてななお生き残った本で「希少価値」というあるいは内容と離れた価値が何とか生まれている。
いま古書店ではなく「ブックオフ」などのセコハン屋に流れ、あるいはそこでもはみ出して捨てられているのは大変な量、食べ物の賞味期限切れなどの廃棄とそっくりの状態があるのを新聞記者は書かない。なぜなら出版社からにらまれ、広告に響くからだ。
紀田氏のことに戻ると「2年前に約3万冊を古書市場に処分した」とあるけれど、わが業界がこれを「歓迎した」とはとても思えない。こんなに一気に出されては値崩れ必至ではないか。 昔郷土史ブームということがあって、各地の「○○史・誌」の類が復刊された時期があった。これらの中で「当たった」のは一握りで、ブームが過ぎて残った品々は悲惨。わが店でも数件引き取ってほしいという話があったけれど、数年に一冊くらいしか売れない本が数十冊どころか百冊にもなろうかというものを引き取れる話ではない。軽トラック一杯の「同じ本」を捨ててもらったことが複数回ある。そうでもしないと業界に流れると値崩れしてしまうからだ。また戻れば、紀田氏の本の中に「図書館が持っていない、必要」という本が果たしてどれだけあったか、はたまた失礼な言いぐさではあるが「紀田文庫」を設立するほどの「内容」のものであったかどうか。本は「数」で評価しても意味はない。「大宅文庫」をはじめ、初期から小生もかかわっていた「住民図書館」など(いずれもいまや運営に窮している)明確な特色がなければいくら多量であっても「蔵書文化」というにはお寒いのではないだろうか。日本の出版量は国力に不似合いな無駄が多いことを示している。資源の無駄使いということを考えなければならない。またそもそも本を読む・必要という人はごく少なく、今の販売数は宣伝によって作り出されているに過ぎないことももっと知るべきと。