閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「蔵書の話」続き。

2017-10-17 08:38:35 | 日記

 「危機に瀕する蔵書文化」という大仰な記事の見出しもいかがなものか。 紀田順一郎氏が、もう十数年前になるだろう、震災を恐れて岡山かどこかの山中に書庫を立て蔵書を引っ越しさせた、という記事を見た。その時も 彼の仕事からしてそんなに大量の蔵書が必要なことを不思議に思った覚えがある。 わが仕事はもとより古本・古書の扱いだけれど、この30年間に出た本で「古典・資料・引用」として後世に残る本がどれだけあるだろうか、それは「質」の問題だけではなく「出版量」の問題でもあって、何しろ多すぎる、の一言。戦前の出版事情を見れば歴然。もともと今に比べれば点数も発行数も少ない、しかも「関東大震災」をはじめとする地震、大火、水害そして極め付きは空襲。これらを乗り越えてななお生き残った本で「希少価値」というあるいは内容と離れた価値が何とか生まれている。
 いま古書店ではなく「ブックオフ」などのセコハン屋に流れ、あるいはそこでもはみ出して捨てられているのは大変な量、食べ物の賞味期限切れなどの廃棄とそっくりの状態があるのを新聞記者は書かない。なぜなら出版社からにらまれ、広告に響くからだ。
紀田氏のことに戻ると「2年前に約3万冊を古書市場に処分した」とあるけれど、わが業界がこれを「歓迎した」とはとても思えない。こんなに一気に出されては値崩れ必至ではないか。 昔郷土史ブームということがあって、各地の「○○史・誌」の類が復刊された時期があった。これらの中で「当たった」のは一握りで、ブームが過ぎて残った品々は悲惨。わが店でも数件引き取ってほしいという話があったけれど、数年に一冊くらいしか売れない本が数十冊どころか百冊にもなろうかというものを引き取れる話ではない。軽トラック一杯の「同じ本」を捨ててもらったことが複数回ある。そうでもしないと業界に流れると値崩れしてしまうからだ。また戻れば、紀田氏の本の中に「図書館が持っていない、必要」という本が果たしてどれだけあったか、はたまた失礼な言いぐさではあるが「紀田文庫」を設立するほどの「内容」のものであったかどうか。本は「数」で評価しても意味はない。「大宅文庫」をはじめ、初期から小生もかかわっていた「住民図書館」など(いずれもいまや運営に窮している)明確な特色がなければいくら多量であっても「蔵書文化」というにはお寒いのではないだろうか。日本の出版量は国力に不似合いな無駄が多いことを示している。資源の無駄使いということを考えなければならない。またそもそも本を読む・必要という人はごく少なく、今の販売数は宣伝によって作り出されているに過ぎないことももっと知るべきと。

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「論の周辺・危機に瀕する蔵書文化」という記事を読んだ(毎日新聞)

2017-10-08 22:26:50 | 日記

紀田順一郎の「蔵書一代」という本の紹介記事なのだが、「何を今更、ちゃんちゃら可笑しや」ということです。 やはり新聞記者という連中には「古本・古書店」に関する関心が全くないということをさらけ出している記事と思う。そしてこれが世間の「良識」と思われる、というより記者が疑いもなくまさしく自分こそが伝達者であると思って書いていることが「怖い」。
 「蔵書一代」という言葉は古本業界では昔から言い伝えられてきた言葉で、「続かない」と同義語・言い換えである。学者・研究者の世界を見渡すと、親子二代で同じ分野の研究をしているという例はまず稀。われらがすぐ思いつくのは金田一・河竹・物集などの辞書・叢書の編集からみを除いてはまずいないのではないか。有名な学者ではない世間の人でそれなりの蔵書をもっていて、それが息子に引き継がれることはまずないし、まして残された奥さん・娘や息子嫁にとっては完璧に「ゴミ」でしかない。その蔵書が古本屋に任されるのはまだまだ幸いな方で、おそらく世の大半の「蔵書」はゴミ処分されている。それをいちいちもったいないとか、図書館にとかいう方が現実離れした「希望的楽観・空論」に過ぎない。
 この先言いたいことは多いけれど、一点に絞れば、その原因は住宅事情ということに尽きる。名前だけは「マンション」だの「ビラ・メゾン・シャトー」と銘打ってはあっても実態は、一戸建ちで「ウサギ小屋」アパートなら「ハチの巣か鼠小屋」という「家」で「蔵書」ができるか!? ことは本だけの話ではない。物入がないから靴も洋服も「買いたいけれども置き場がない」床の間は無いから掛け軸はダメ、玄関が狭いから置物も置けない、壁は傷をつけたくないから額絵もかけられない。現実にわが店のお客さんで今店頭にあるちょっと分厚い本、「ほしいし、必要な本だけど、置き場がない」から買えないという。百貨店は言わずもがな、わが業界、骨董業界、家具屋、美術商あるいは陶磁器の窯元等々。なぜ今売れ行き不振か、それは「家が狭い」の一言に尽きる。逆に昔ほど広くはなくとも一戸立ち、集合住宅でも今一つの「納戸」があり、和室と床の間があれば上記の業界の売り上げは全く違ってくるだろう。少し話が大きくなるが、昔会社でも上のクラスのお付き合いといえばまず「茶の湯」であり「謡」だった。そこで古いしきたりや器具・道具・設え・調度が話題になり、普請道楽ということも芽生えた。当然ながら知識の蓄えに本は必要、字も書けなくては恥をかく、キチンとしたところへ出るには服装も必要。という具合であったのだけれど、交際がゴルフであり麻雀にとってかわられるとこの「知識・教養」がまるで不要になり着るものも大衆化したブランド品に成り下がってしまったが、それを何とも思わないどころか「大衆化」という美名を与えて肯定してしまった。 芸術・文化には「無駄」が必要なことは歴史が教えている。今の日本人の生活には「無駄」を生む余裕は全くない。これでは本の売り上げはもとより「文化」は育たない。
 この話は もっと広がりをもつのだけれど今回はこの辺で閉じる。今の政治家はもとより霞が関の連中の「教養」の低さ・無さは 「亡国」の兆しだと思う。

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