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閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

高価なわけ

2011-09-30 19:18:45 | 日記
このところ 一軒の家を片付ける  という話が多いです。独身で(老いも若きも)亡くなった、あるいは老夫婦の
どちらかが亡くなって、息子や、娘の所へ行く、という話。その気で見れば周りは「貸家」「売屋」が相当ある。
 いずれにせよ、旧所持者にとってはそれなりのつながりがあればこそ今まで残してきた 品物であろうが、其の「繋がり」の根拠を失うと まっすぐ「ゴミ」になってしまう。ある一軒では「額縁」、それなりの作品とは思うものの 「何処のどなた」がわからないでは「売り」ようが無い。額縁も流行、廃りはあるし適当なサイズは「中古」では難しい。地方のギャラリーで
個展を開いた友人の作品を祝儀代わりに買った というのが最悪。書などの「掛け軸」にいたっては 話にならない。 古物、骨董やさんとおなじく古本の分野でも「近」過去・昔の物は扱いが難しいです。
 とりあえず、大量生産物の遺「物」を減らすよう みんなで努力しましょう。
 古本屋の世界では 二桁まで減ると 関心を取り戻せるでしょう。限定500部なんてくそ食らえ!1000部にいたっては
ゴミ! 高価で有名な古書の現存数はいくつか 皆様ご存知ですか? 発行部数ではなく 実際に売れた数です。売れ残った本は破棄され、今はいくつ・・・?  だから「高価」なのです。あなたの本は(たとえ初版・帯付でも)全体で何部 世の中に出回っていますか?

 
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本を探している、 あなた本気ですか?

2011-09-28 19:55:45 | 日記
 調べるということは、「わからないことがあるということを知る」ことです。相変わらず、自分の家のいわれを知りたい、何処そこに残る昔話を知りたい、いや「調べている」というような話を持ち込む人が多い。 
世の中の大方の人たちは 自分が求めることは 自動的に(お金さえ、それもゴク安く、払えば)出てくるものと思っている、古本屋はそれを当然「してくれる」商売だと、確信しているようである。 しかし現実は甘くない。 
地方の一の伝承など「本」になりようが無いではないか。 「本」にしたところで誰が買うか、そもそもせいぜい数ページの報告くらいなので、どこかの「地方史研究雑誌」の一項目位でしかない。それを探しだしては如何ですか? と進言しても通じない。それはどこ(店の中の)にあるか?今すぐ知りたい というような反応でお手上げという事例が・・、多すぎる!
 司馬遼太郎、松本清張、古くは大仏次郎、長谷川伸など 作品のために膨大な資料を集めていた人のことを 知識としては知っていながら 其の「愛読者」と言う人が イザ自分が調べたいことに「努力」しようとしないのか 誠に不思議。
 我が店は高々8坪強の小さな店であって頭をめぐらせば一目全体がわかる。其の店頭にたって 「・・の本はあるかね」「歴史関係はどこかね、分類はどうしてある」と 店に入ってくるなり本を見もせず、のたまう人が多い。 我が店としては対応に困って物が言えない。たとえば「佛教美術」という本があって、それを「佛教」に入れるか「美術」に入れるかは 其の店の個性だ。 
 食べ物やだって「ラーメン屋」「すし屋」「天麩羅や」それぞれあるのにどうして古本屋が「何でもあなたのご希望どうり」という店たらねばならないのか ズット考えているが わからない。 知らない店に入ったらまず「メニュー」を見て其の店の様子を判断するだろう。トンカツやに行ってチャンポンを注文するのは、それとわからせなかった店のお責任だろうか、それとも気が付かなかったお客の責任だろうか。 いくら田舎の店とはいえ モウ少し まともなお客様の来店を 切に願うものです。
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本に限らず 物の行方

2011-09-26 19:50:31 | 日記
 このところ 一軒の家の片付け という 話が多い。
古いタイプの人たちは 物を捨てる ということに罪悪感を持っている。
そういった人たちが イザ自分で身の回りの世話が出来なくなったとき
残された品々は一体どうなるだろうか。
 本も もちろんこういう事例は多いのだが、陶磁器、あるいは油絵
になるとなお始末が悪い。
 下手にサインや窯印があると ひょっとすると「売れる」人の
作品か? と 処分を躊躇してしまう。 これが 怪しい!
 陶器祭などでの売れ行きが悪いと聞いた。 当然である。古書の
世界とおなじく 住宅事情は悪い、次々と新しい作家は出る、なかなか
割れて次に買い替えと いう場面はすくない。  行き着くところは 
やはり個々の作品の「力」でしかない。
 大量生産されたものを 少し時間がたったところで云々しても
結局ゴミ漁りのような結果でしかなかろう。要するにつくり過ぎなのである。

 ゴミの中から「宝物」を探す人、一方で 探された「お宝」しか
扱わない人、この二者のどちらに付くか? 思案のしどころである。
 世の蔵書家の皆様 お片付けはゼヒ 自分の目の黒いうちに
なさるよう あるいは反対に 一切ゴミでもかまわないと残る家人
に 言いくるめて置かれるよう。
 基本的には本も同じだが 世の中から消えてくれなければ
「希少価値」は発生しないのであるから どんどん捨てるべき という
 古本屋の希望にたどり着く。 本は基本的に「ゴミ」だあります。
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秋の味覚

2011-09-24 13:34:24 | 日記
小生は 時々農夫?になる。
 先日 そろそろかなあ?と思って ある場所に行ったら、一面
黄色のじゅうたん 状況。これは大変、急ぎビニル袋を取って拾い出したが
とても袋が足りない。ついに甘夏カンの函に入れだしたが 満杯になってしまった。
 いつもは数日おきに2,3袋ですんでいたのだが、今年はちょうど台風の
余波の風で ホボ全部一気に落ちたらしい。
 もって帰ったもののこれを水につけ、外皮をとり 干す手間や如何!
 一般的には「臭い・ウンチのにおい」といわれるが、小生はそういやなにお
いとは思っていない。 かつて 福岡のある神社の実が大変大きく美味で
自分で拾うだけではなく管理人に頼んでまで集めたこともあるのだが 今はど
うなっていることやら。同じように見えても 味・大きさそれぞれで
今でも 「美味しい実のなる木」を知りたい。ピーナッツもそろそろ、
 10月半ばからは 柿。皮をむいて干し柿にするのは 楽しい。
 さる大学の元教授の本の整理の話が出ていた。30年位前の 定価うん十万
という本が 「ゴミ」である。同じ頃の文芸の単行本もまたしかり。
100円均一に出しても誰も見向きもしない。
 100年たった本しか扱わないことにしよう。(決意表明何度する事か)
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「本好き」って どれくらいいるの?

2011-09-18 10:56:50 | 日記
最近買い受けた本の中に、「本屋さんへ行こう」「ケトル(創刊準備号)」というムックがあった。
以前から時々出る「特集記事」や別冊などがあるが、そして中には時々古本屋のことを
あれこれ というのもあるが、 さらにこれらのムックはどう見ても数千部、あるいは萬
を超えて販売されていると思われる。 さらば 其の読者は一帯何処にいるのか?という
疑問がわく。大牟田の片田舎は論外としても福岡に、北九州にどの程度存在するかしら。
 一方、ムック類の内容は 圧倒的に東京情報で 本当にどうでもよい「泡」の記事ば
かり、まれに関西が顔を出すのは アリバイ工作か。そして 新刊やはこんなに「騒動して」
あれこれ紹介しなければならない価値のあるものだろうか。
 思うに この手の出版を企ている連中の感覚には東京以外の「文化圏」というものは
存在しないと思う。またほとんどの者が稲の実のなり方も知らないのではないか。
 都会派 それはそれで結構だが このような本(雑誌)が次々出るのを見ると
「紙の無駄使い」「神田村ド壷」という思いしか浮かばない。古本で数百円で買える
 品を麗々しく宣伝し数千円で売る、 それを買う どっちが先で、どっちがわる
いのでしょうかなあ。
 内容には 「本屋に行って何か探し出そう」と言うような惹句がある。これだけは
強く 支持する文言である。ことに古本屋は「何かあるかな?」と思っていくところ
であって、 新刊屋の売れ残りを安売りしているのでは ない! 「先々月の文藝春秋
 をください」など 決して訪ねてきてほしくない。
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