先だって買い入れの中に「鞍馬天狗」の全揃いがあったのでこれを機に読んでみた。
確かに「面白い」作品(中にはちょっとダレたのもあるけれど)発表されたころにはこのような「怪傑」ものの読み物はなかったようなので、大衆受けしたことは当然だろう、もっとも、講談では「豪傑・快男児・義侠」は沢山いるけれどもどれも一応歴史の史実に基づいたのが多い。 そこに全く虚構・創作の「英傑」を登場させたのが新味だっただろう。今はこれが「怪傑ゾロ」(小生は読んだことはない)を下敷きに換骨奪胎したものであることは知られている。
内容は特段のややこしいことはなく今で言う「ライトノベル」で 内容をあれこれ言うまでもない。事実から見ればおかしなことだらけで故実にうるさい方々からは「噴飯もの」であろう。主人公の出自から始まって剣の腕は、乗馬の腕は、事件ごとに移動する距離と時間は、などなど、そして主に京都が舞台なのに言葉は「東京弁」! 武士と町人の言葉の違いもない。 これが発表されたころは今に比べれば幕末維新の記憶の濃い時期であったのにこの小説に考証についての批判があったとは聞かないのが不思議。「大衆読み物」はどうでもよかったのかしらん。
一方この小説の影響は大きかったようで、その後十数年ごとに次々と新しい英雄(ヒーロー)が生まれた。眠り狂四郎、月形半平太、柳生連也斎など、さらにはホームズやポアロを下敷きに、黒羽二重もの、岡っ引きもの、これらの先陣を切り開いた作品ではあろう。 以前小説の表現のことで、「筋書」ではなく周辺の表現、書き込き込みが作品のあやを作り出し表現を深めるのに大変重要だと書いたことがある。この見方からすると「鞍馬天狗」は及第点は難しいのではないだろうか、眠り狂四郎の方がこの点はズット書き込んである。この手の小説はこれまでほとんど読んでこなかったので大変面白くはあった。今新刊の(文庫でしか知らないが)新しい「時代物作家」が出てきているけれど、今のところ読む気にならない。いくつか拾い読みしては見たけれど本当に「ライトノベル」そのもので時代背景などにあやしげな点が多く読み継ぐ気になれない。「明治は遠くなりにけり」と言われたのも随分前のことだけれど本に仕立てて世に問うからには もう少しその時代を把握しその場に沿った表現で書いてもらいたいと思う。