昨年末の毎日新聞に「語る・書店を開いた極地スペシャリスト、荻田泰永さん」
という特集記事が載りました。新刊店なのでちょっと趣は違うけれど、記事の中に「ジャンルや著者別に整理せず」というのがあってその理由が「分けてしまうと興味のない棚は見ない、ばらばらにおくことで意外な本にも目が行く」そしてお客さんの評判も悪くない」と。
全く我が意を得たり、同感です。新刊店でこれが通るのなら古本屋はもっと徹底してもいいのではないだろうか。
以前から書いているが、店に入ってくるなり「●●はないだろうね」というのが後を絶たない。「わかりませんのでどうぞご覧になってください」というと「探せというのか!分類はしてあるのか?」と。
これまで小生の説明は、「分類というけれど仏教美術という本を宗教にするか美術に置くかはその店の個性です、あなたが確かめてください」「我が家は魚屋ではない、切り身はおいていません。釣り場です、タイが釣れるかヒラメが釣れるかあなた次第、ここにある本の中から見つけるのはあなた次第」「今あなたは探しているといったけれど、それは違う、あなたは尋ねているだけ。探すというのは手偏でしょ、自分でやるのが「探す」です」「あなたが探して、この棚の中にないのであれば相談には乗ります」と。 その本を知らない、と答えるとまず「無いのか」という、「無いかどうかもその本を知らないのだから答えようがない」「その本のことを知っているのはあなた、私はその本を知らない、知っているあなたが探すのが一番早道でしょ?」 まず初めの二言三言でさっさと出ていく人が多い。その間たった八坪強の狭い店の本棚を全くみようともしない。中には我店でまず扱うことのない分野の本を「無いでしょうね」と、この手の人は真剣に探しているのではない、ちょっと聞いてみることで「探したのに無かった」という自己安心を得るアリバイ工作に過ぎないのだとしか思えない。 これは誇張では全くないのです。月に2・3人はある。
大牟田の人には店先の「百均の店」という認識しかないようで、たまに袋いっぱいの本を持ち込んで「売りたい」と。出してみると百均本ばかり「あんたん所でこうたっちゃけん」と。「処分品なので買い戻しはしません」
また書き込みやヤケ、シミだらけの本を持ち込む人もある、「わが家にはそんな汚いものは置いていない」といっても怪訝な顔。これらの人たちはいずれも店内の棚や平台の本を一度も見たことも手に取ったこともない人たちで、「古本、即何でも金になる」と信じ、思いこんでいる。「綺麗・汚い 新しい・古い」の区別がつかない。「使用価値と交換価値」の違いの云々以前の「古本屋」についての認識が根本的に違うのだが、いくら説明してもわかろうともしない。先の例と共に自分の価値観と違う世界ではないかと思いいたることもない人が多いのは困ったことです。このところのコロナ騒動で 以前からの遠方からの来客がかなり減っている。それでも店に入ってくるなり黙って棚の本を眺める人が時々あるけれど、ほぼ全部「他所からの人」。