普段は郷土史や技術史などの分野の本を見ることが多い、でも時々「小説」を読みたくもなる。 もとより手元の在庫や入手した本の中から選ぶので、近々の作品を読むわけではない。この頃の芥川・直木賞の作家などはほぼ読んだことはないといってよい。
しかも読み始めて最後まで読み通さない作品もよくある。一方、早く読めばよかったなあ、という場合も当然ある。いわゆる古典の名作はほとんど読んでいないのは困ったものだけれど、今更、ことに外国文学は読む気になれない。 「私小説」かそれに準じた作品で「うまいなあ」と思うことはたまにある。 書かれている出来事や心象は小生にも経験あり、という場面があるけれども、その描写の仕方に感心するのだ。
小生は、例えば「一筆啓上、おせん泣かすな、火の用心」「旦那はいけない、私は手傷」というような文章が素敵だと思うし、手紙はもとより普段書く文章はできるだけ簡潔・単純に短く、を心掛けている。あれこれ飾って字数を増やすのは苦手である。また日本の「私小説」の中には日常の生活やの動作・心の動きをうじうじと書き連ねているのが多いが、小生は評価できない。最近ある有名な少し長い作品(4・5年前に流行った)を読んだけれど、ある心の動きを3・4ページにわたって描写している。しかも「読ませる」書き方である。よく「誰だって小説のような出来事はあって、また主人公になれる、ただ書けないだけ」といわれるが、似たような思いはあってもこの作家のような描写はとてもまねができない。それはいわゆる「筆力」というのではなかろうか。 それとさらに、「引用」の幅の広さである、「誰それ曰く」とかある音楽や絵画の印象を引き合いに、あるいはBGMのような使い方。これも描写の広がりの要因だろう。 引用はその作者の教養の程度を示すものであろうと思われる。
とにかくこういう作品に出合うと自分の教養のなさを恥じるばかり・・・。