閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「中毒」なる本

2023-05-15 08:01:34 | 日記

  整理・修理や買い取った本を点検する途中でいわゆる「拾い読み」することはまあ日常的なことですが、このところこれと言って取り上げる本に出合わない。

 先だって「出久根達郎」氏の著作、文庫を5・6冊入荷した。本屋の「先輩?」でもあり、この業界で「物を言う」存在であり、今や「作家・随筆家・書物評論家」という二足・三足の草鞋を履く人、そして「漱石」大好き、というより尊敬している人、とあって「ちょっと読んでみるか」と。

 一冊目はそれなりに面白く、漱石好きという人の文章も亦楽しめました。それで次を目を通し(読んだとは言えないだろう)3冊目、失礼とは思いながらも「飽きて」しまいました。

 西村京太郎・内田康夫・池波正太郎等々めちゃくちゃな「作品量」をこなして人がいて、それをまた読む人が大量にいるのを不思議に思ってきたのだけれど、現実に我店の店頭でも「均一文庫」での彼らの物は間違いなく完売する。「中毒」ですと言った人もあった、しかし「中毒」させるほどの「魅力」は一体何だろうと思ってしまう。ちょっと場所や時間を変えただけの、しかも結末はわかっている、でも読みたくなる、まさしく「中毒」と言えるだろう。同じく(ではないか)大量の作品を残した松本清張・司馬遼太郎と比べるとよくわかるだろう。さきの彼らの様ないわゆる「同工異曲」というような作品はない。

 はじめに戻ると出久根作品も結構な点数と発行量なので彼の文体を好む人がそれだけ存在するという事だけれども、小生にはそこまでははまる気にはさせてくれなかった。

 ずっと以前、「古本屋は古本屋であって作家や学者ではない」という「不文律・自己抑制」みたいな雰囲気があって、たまに「本」を出す人も「恥ずかしながら」とか「やむにやまれず」といった「言い訳」してこっそり、という感じであったけれど、今や古本屋で自著あり、という人は珍しくなくなってしまった。 それが良いことなのかどうかわからないけれど、

 ひねくって一言、「紙(資源)の無駄使い」は止しましょうね、 と。

コメント
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