閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

本が多すぎる

2014-06-17 16:17:38 | 日記

  「書物の出版量の激増しているのに反して、その実質は往昔に比して下落している。書物の氾濫といふことは要するに凡書の氾濫を意味しており、千百の新刊書中、一二の良書を見出すことが困難とせられる。ただ售らむがための、その場限りの書物があまりに多すぎる。さやうな書物がいかに多量に生産されようとも、それはその国の文化の向上を意味しない」

 これは近々の文章ではない。終戦後すぐの「書物」に載った森銑三の文章の一部引用である。まるで今の話ではないか!

小生も以前から言っていることだが、新聞の下段の新刊の広告だけでも年間ではかなりの点数になる、実際はその数倍以上の本が発行されているだろうが、その中で五年後、十年後になお命脈を保つ本がどれだけあろうか。

この数年、「本を処分したい」という依頼が以前に増していて、その対応に追われて、大量の本を動かす「作業・労働」が避けられない。結果として、倉庫は満杯、手指・二の腕は疲労困憊というのが実情であるが、その処分本の内容は、昭和35年頃から十数年間、高度成長期に出されたものがほとんど。セールスマンに勧められて買ったというものも多い。

百科事典、美術・文学の全集、写真入りの歴史もの、大型の画集 等々。日本の景気が良かった時期に買った方々が「元持ち主」である。「蔵書二代」の言い、そのまま、残った家人にとってはほぼ「ゴミ」で大事にしようというのは殆んど無し。即「処分を」という訳である。初刷りから1万、2万という当時の発行部数では希少性は皆無、百円均一でもどうかというもが大多数といってもよい。先だってのブログに返品の資源の無駄を書いたが、これらの本類も同じである。このころセールスを通じて売られた百科辞典・美術・文学全集のいかに多いことか、それらのほとんどが応接室の棚飾りであって、ほとんど開かれないまま今処分されている。べらぼうな量の紙の無駄遣いである。この現象は現今でもほとんど変わりはない。報道では発行点数、部数が減ったことを書いているが、今のネット社会では論文類は殆んど見ることができて、「本」の必要が無くなっているのだからこの面でも発行が減るのは当然であろう。何も騒ぐことはないだろう。我が業界では、この先、十数年後には「古本屋」で売る品物が無くなるという人もいる。定価より安く大量に売る「ブック・オフ」並みの店ではまさしく「売る物がない」事態になるだろう。

しかし、今の様な大量な古本市場への流れ込みを見てのとうり、長く生き残る本は初めからそう沢山はない、今まで「駄本」が多すぎたと思うべきだと信ずる。いわゆる「古典籍」の業界はまず揺るがない。「セコハン販売」が淘汰されるのはいわば当然で、かえってその方が古本屋としては正常な姿ではないかと思っている。日本の出版業界が「異状」であることを業者も、マスコミも読者ももっと知るべきだ。

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「煙草屋とコンビニと雑誌」

2014-06-03 15:43:28 | 日記

 

 新聞によれば、タバコの販売店の新規出店を規制強化するとのことである。その理由は、街角の弱小タバコ屋を守るためであるという。これまでの最低販売実績基準を緩めて、あまり売り上げの多くない街角店の近所に新たなタバコ販売の新規出店を規制するという。これは即ちコンビニの出店規制を意味することは明白であろう。 タバコに反対する世論にどう反映されるかは知らないが、小生の驚きは、タバコ販売店の「政治力」である。これまでにほかの業界で、弱小といわれる販売店が政府与党を動かして自分の権利を守れた、という話はあまり聞かないのではないか。風呂屋は生活様式の変化であろうが、八百屋、魚屋、肉屋、薬屋、洋品店、靴屋などはみな大型店舗に食われて廃業させられた。

 この事例に全くそっくりなのは、新刊店である。  皆さんは外国のコンビニで雑誌・週刊誌を売っているかどうかお気づきだろうか。小生の聞き及ぶ韓国・台湾などでは売っていないはずである。(小生が海外に出たのは随分前で、まだコンビニがそう広まっていなかったし、ホノルルの店ではおいていなかったように思う) 即ち、週刊誌を売っているのは日本だけ。これが町の新刊店をつぶした元凶ということはあまり知られていない。 大牟田近辺でたとえれば、東京で火曜日発売の週刊誌は九州では博多に水曜日、周辺の都市には木曜日にしか配達されない。大牟田では早いところで水曜の夕方、南関では熊本コンテナターミナル経由なのさらに遅れていた。ところがコンビニでは独自の直接配達があって、数時間から半日も、ところによっては1日早く店頭に並ぶのである。週刊誌にとって半日の差は大きい。定期購読で配達を待つ人はともかく、連載を早く見たいという人にとっては車でちょっと、という距離であれば少しでも早く手にいる方へなびくのは当然。これによって、「日銭」稼ぎの週刊誌の販売数は軒並み激減してしまった。 これは、タバコの売り上げ云々とレベルの違う「文化崩壊」といっても大げさではない重大事であったはずだが、このことを、マスコミが取り上げたのは寡聞にして知らない。 タバコ業界の政治力に比べてなんという違いだろうか。

今、コンビニで週刊誌の販売を(諸外国にならって)やめたらどうなるか?まず出版屋は反対することは目に見えている。コンビニ側はどうであろう。 どこの店でも表側のガラス壁に沿ってかなりの部分を雑誌・週刊誌で占めている。業界創成期であれば客寄せに週刊誌(定期的に来店が見込める)を、という思惑はあったと思われるが、今の多種多様の品ぞろえの業態で雑誌が本当に店の売り上げに貢献しているであろうか、雑誌が無くなれば立ち読みもいなくなるしかえってほかの品ぞろえに貢献するのではないか。 一方この業界特有の「取次店」の存在がある。彼らは猛反対するだろう、地方の弱小本屋がつぶれるのを座して黙認どころか、大口取引ができて手間が省けるといって歓迎・推進した方なのだから。彼らにとっては取扱い「量」が問題なのであって、「どこで・どんな本屋で」という視点は無い。もはや役所の感覚である。中小の小売店がつぶれ、店主はじめ家族が大型店舗の非正規雇用従業員になるのを進めてきた。雇用が増え、大型店の売り上げがあれば役所の経済統計上、見た目には向上したと映る、しかし実態はどうかという視点が欠落している。自営業者を町から消して町が守れるか? 従業員になった人たちが祭りを支えられるか?子供たちの通学を見守ることができるか? サラリーマンの役人には理解できないことだというのは全国の「町」で証明されている。

もしコンビニでの雑誌販売が無くなれば、相当数の「本離れ」が生ずることは間違いない。しかしそれがどうした、というのが筆者の論である。そもそも完売して返品無しという方が少なく(品揃えと称して最低1冊は残るようにしている・これは委託販売の悪しき例でもある)、相当量が返品という輸送コストをかけ、さらには廃棄され、壮大な資源の無駄遣いを連綿とやっている。 発行部数が減ることは、国全体のエネルギー消費を考えれば歓迎さるべきである。またネットなどの配信が強力にかつ多様に進められている今日、印刷し重たい紙に輸送コストをかけていることを考えると、漫画や、ゴシップ、美容、ファッションなどがそれほどエネルギーを消費するほど大事な内容といえるのか、週刊誌を見なくなって本当に困る人がいるかどうか考えてみる必要があると思う。

コンビニから出版物が消えたら、間違いなくコンビニはもっとおもしろいことになる。 

町から「本屋が消えた」という記事・論文は時々見受けられるが、これが「新刊屋」の話題でしかないことは「古本屋」としては面白くない。古本屋の目から見ればまだまだ出版物が多すぎるのだが、このことは別の話題。

 

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