「書物の出版量の激増しているのに反して、その実質は往昔に比して下落している。書物の氾濫といふことは要するに凡書の氾濫を意味しており、千百の新刊書中、一二の良書を見出すことが困難とせられる。ただ售らむがための、その場限りの書物があまりに多すぎる。さやうな書物がいかに多量に生産されようとも、それはその国の文化の向上を意味しない」
これは近々の文章ではない。終戦後すぐの「書物」に載った森銑三の文章の一部引用である。まるで今の話ではないか!
小生も以前から言っていることだが、新聞の下段の新刊の広告だけでも年間ではかなりの点数になる、実際はその数倍以上の本が発行されているだろうが、その中で五年後、十年後になお命脈を保つ本がどれだけあろうか。
この数年、「本を処分したい」という依頼が以前に増していて、その対応に追われて、大量の本を動かす「作業・労働」が避けられない。結果として、倉庫は満杯、手指・二の腕は疲労困憊というのが実情であるが、その処分本の内容は、昭和35年頃から十数年間、高度成長期に出されたものがほとんど。セールスマンに勧められて買ったというものも多い。
百科事典、美術・文学の全集、写真入りの歴史もの、大型の画集 等々。日本の景気が良かった時期に買った方々が「元持ち主」である。「蔵書二代」の言い、そのまま、残った家人にとってはほぼ「ゴミ」で大事にしようというのは殆んど無し。即「処分を」という訳である。初刷りから1万、2万という当時の発行部数では希少性は皆無、百円均一でもどうかというもが大多数といってもよい。先だってのブログに返品の資源の無駄を書いたが、これらの本類も同じである。このころセールスを通じて売られた百科辞典・美術・文学全集のいかに多いことか、それらのほとんどが応接室の棚飾りであって、ほとんど開かれないまま今処分されている。べらぼうな量の紙の無駄遣いである。この現象は現今でもほとんど変わりはない。報道では発行点数、部数が減ったことを書いているが、今のネット社会では論文類は殆んど見ることができて、「本」の必要が無くなっているのだからこの面でも発行が減るのは当然であろう。何も騒ぐことはないだろう。我が業界では、この先、十数年後には「古本屋」で売る品物が無くなるという人もいる。定価より安く大量に売る「ブック・オフ」並みの店ではまさしく「売る物がない」事態になるだろう。
しかし、今の様な大量な古本市場への流れ込みを見てのとうり、長く生き残る本は初めからそう沢山はない、今まで「駄本」が多すぎたと思うべきだと信ずる。いわゆる「古典籍」の業界はまず揺るがない。「セコハン販売」が淘汰されるのはいわば当然で、かえってその方が古本屋としては正常な姿ではないかと思っている。日本の出版業界が「異状」であることを業者も、マスコミも読者ももっと知るべきだ。