先に明治24年の地図のことを書きました。そこに大浦坑からの鉄道の記載について???でしたが、これはいわゆる馬車鉄 であることが判明。ただし、南隣の七浦坑へエンドレスができたら廃止になったものだそうで、その時期があやしい。横須の干拓、三池港の出来具合、小川開、小浜、浜田の干拓の出来具合など、少しづつ??という部分があってこの明治42年という時期は大牟田の激変の始まりのころでおそらく地図の製作会社も近い予定、現況、ちょっと前、許認可の時点、などの 区別がきちんとできていないのであろう。これは責められることではなく、地図を利用する側が注意すべきことだろということだ。今の国土地理院の地図だって危ない部分がかなりあるけど、これもお役所への届のどの時点で完成とするかの見極めにかかわることで、完品は求める方が無理。石炭産業科学館にもう少し古い図面があるそうで、それと見比べてみたいと思っている。 この4月で大牟田の人口は12万人を割りました。着々と減ってゆく。人口の多いことが必ずしもいいこととは思わない、減ったなら減ったなりの事をすればよいと思うけれど、今のようにいつまでも人口増をだけ目標に掲げていては足元がおかしくなるのは自明の事、市役所の連中はいうこと、やることのつじつまが 全く分からない、。自分たちの給料は市民の汗の結晶ということを忘れていると 言われても仕方がないだろう。 吾店としてはこれまで以上に大牟田を相手にしないでやってゆく努力しかないということだ。