閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「音」・楽器の好み。

2022-09-26 07:43:39 | 日記

いわゆるクラシック音楽が好きです。生で聴くのが一番ですが田舎ではそうはいかない。 電気仕掛けの「拡声器」が苦手なので「ステレオ」なるものもない、それにレコードやCDは便利だろうけれども所詮は「缶詰食品」、何度食べても同じ味。何度聞いても全く同じ、というのは味気ないではないか。FMの番組をできるだけ拾うことでごまかし?ています。 

 先日「リサイタル・パッシオ」で小沢るいの演奏を聴いた。演奏は素晴らしいことは言うまでもないことでしたが、もう一つ確かめられたことがありました。

 それは「サキソフォーン」が全く小生の好みでないことです。なぜサックスを選んだかという答えに、「キラキラしていてかっこよかった」「音が大きい」というのが多いらしい、小生には姿ではなくその「音」が問題なのです。 ずっと前、高校時代(半世紀以上前!)ジャズを知ったころデキシーランドジャズが流行っていたのだけれども小生はあのごちゃごちゃした音になじめなかった。そのころソニー・ロリンズ他サックスの名手がいてことにシル・オースティンの「音」にしばらくかぶれていた時期がありました。 その後はオケに参加したこともあってほとんどジャズを聴くことはなかった。そうこうしているころ、指揮者の飯吉氏が本来トロンボーン奏者で、彼の「音」、彼の後輩・弟子筋の人たちの「音」を知ってから、今度はジャズでもトロンボーンに関心が移った。で、サックスの音が大変気になりだしたのです。ほかの人はどう思うか知りませんが小生の耳にはあの「音」はベタッと皮膚にまとわりつく感じ、あるいは押し付けがましい「音」に感じられるようになって「サックス嫌い」になったという事です。ライネッケ作ソナタ・ウンディーネを聴きながらも「クラリネットでの演奏のほうがズット上品で聞きやすいんではないか」と。

 今、我が身辺にはこんなことを語り合える相手がいません。 自分で「フムフム」と思っているだけ、寂しいというより独りよがりになるのが心配。

 音楽会・映画は一緒に行っても途中で感想を言い合うわけにはいかず、終わってからだと観点が違って話がかみ合わないことが多い。その点、展覧会などは見ながらあれこれ言い合えるので良いのだが、普通の絵や書の展覧会は吾ほうがあまり気乗りがしない。博物館の方がまだましです。

 

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 鴎外の意地・見識

2022-09-17 08:14:45 | 日記

 

面白い本を見つけた。正確には本というよりその「序文」が面白い。鴎外の筆なのだけれど 明治時代の活字と日本語の表記の揺れ動きについて対話形式に苦言を呈している。先に雑誌に提供した小文を「本」にする際に 彼なりの言い回し、正字の使用を求めたのに、活版屋が応じないので仲介の出版人と談判する話。

「机上寶典 誤用便覧」明治44初版。大町桂月・佐伯常麿著、文栄閣書店・春秋社書店 発行、A6版・総ページ583という袖珍本としては厚めの本。 

洒脱な文章で漱石の「坊ちゃん」を思わせる表現、鴎外だってこんな軽味の文を書くのだ、と思った次第。 本文は「当て字」「誤用」のオンパレード。その解説も一読の価値あり。このころの人々は漢籍の下地があるし、康煕字典をもっぱら使っていたので漢字は自在、仏典に多いむやみと字画を増やした字も苦にならない、文語體から口語への「実施試験中」、しかも西洋語の翻訳の新語も加わるというという時期で今日の「日本語」の成り立ちにとって大変面白い時期であることは先刻承知。

小生もできれば簡略な教科書風の字よりも「本字」を使った方がよいと思っている方で、ことに今日のようにワープロが普及したら戦後のいい加減な漢字制限などはなくしてもよいのではないかと思っている。交差点の差は「叉」でなければ無意味、塚の字もいのこへん(豕)の中に押さえの一筆がなければ本来の塚の意味をなさない。塚とは積み上げた土をたたいて固めたもの、すなはち「墓」のことだという意味が分からなくなってしまう。一説にはこの改変・略はある大手新聞社がやりだしてそのまま普及したという。 戦前の書物にはほとんどがルビを振ってあって(これは江戸期の庶民文化の大きな功績・これには音読という習慣も加勢している)多少字が判らなくとも一応「読める」、そのうち慣れて難しい漢字も苦にならなくなる。 いま 先に言ったようにワープロ全盛なのだから雑誌や大衆読み物にルビを付けるのはそう難しいことではないはず、総ルビ本が復活するのは悪いことではないと思うのだが。

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返品 があった そして百均のこと

2022-09-12 20:13:46 | 日記

先だって「落丁」だから返品する、という連絡があり、とにかくお受けしたわけだが、その品はある大手出版社の文学全集の1巻である。 受け取ってみて「これは手ごわい」と思ったのが全部で1000頁もある後ろのほう十数ページが欠丁なのだ。天金の立派な造本、書き込み・印など無しなどはありなしを一応パラパラと捲っては見るけれども 返品者も「綺麗な本で残念」とあり、このきっちりとした造本に欠丁ありとは考えつかなかった。代金は当然お返しして、その返品が大変厳重なもので、着払いの金額は本の代金をはるかに超えていた。 新刊を買った時点で気が付いていれば出版社に交換を要求できるけれども三十数年も経てしかも「古本」ではとても交換は無理。この品は転売できるものでなし 捨てるほかはなく、結局まる「損」!  買い入れの時の点検は大事であることは言うまでもないことだけれど、なかなか徹底できない。数日前も、店への持ち込みで 大方は断ったのだが数冊「ビニール袋」に入れたムックがあって、タイトルはいいので買いあげたけれど、袋から出してびっくり!傷だらけ(種類は色々ですが) ちゃんと袋から出して確認しなかった小生の手落ちです。予期したように綺麗ならばという価格には遠く及ばず・これも損!・・。

 話変わって、(閑話休題というのかな?)百均本のお客のこと。

 数人の常連というべき人があるけれど、彼らはスーパーマーケットで時間が来ると割引するのを待ち構えている人たちと全く同じに見えます。昨日まで特価で2・300円で出していたものを我慢できず100円均一に入れると実に良く、しかも即刻!売れる。全く良く見ているのだと感心する。また少し前のブームの頃の地方史の半端品、〇●編の中巻とか、3冊揃の一冊とか、ただし厚さは一人前に3~6cmはある函入りの本、このところ在庫整理のためにあきらめて100均に出したら次々と売れる!うれる!

 これ一体何であろうか?  買われていく本の表題を見ると実に支離滅裂。本来は500円700円でもよいはずだが少し小さかったり薄いという100円の本には目もくれない。 要するに「厚くて・安い」が彼らの基準であり、「大きな獲物であればよい」ことがわかる、買ってくださるのに文句は言えないが「実に情けない」 彼らにとって「書物」とは何なのでしょうね。 美術全集類の端本を買っていた人たちもこちらの手持ちがなくなって安売りの特価に出ないと知るやバッタリと来なくなった。 もとよりこのところは100均・2・300円なら売れるだろうという程度のものは仕入れそのものをなくしている。

 百均・特価台に向かって下を向いてみる人は「本」を見る人ではない。

 我が家を100円均一の古本店と思っている人が少なからずこの大牟田に存在していることが分かって、いろいろ考えているところです。

 

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官僚主義の行く末 員数合わせと責任逃れ

2022-09-05 07:48:54 | 日記

  少し前、途中からの聞きかじりで 或るラジオ番組で山本七平の「ある下級将校の見た帝国陸軍」が話題となっていた。いわゆる「員数合わせ」についてだったが、有無をいわせぬ暴力支配で帳面づらを合わせることに汲々として、事の本質(なぜそうなったのか、その結果はどうなるか)はまるで考えない、考えようともしない、この「事大主義」について紹介していた。 そんなのは「昔の軍隊の話」だと思っている人がほとんどだと思うが、 このことは今でも官僚社会では全く其まゝであることは古賀茂明のいくつかの告発書(官僚の責任 等)で知られた。 さらにこの事態は過去のこと軍隊や上部組織のことだと思っていたら大間違いである。

 小生はこれまでに自分自身の経験と周りの人の経験を聴いた中で直接には大牟田市役所のことだが、さすがに軍隊ではないので暴力行為はないけれど、役所の人間の感覚は全く変わっていないと思われる。色々な要望を持って行ってもまず聞いてはくれない、いったん決めたことは何れ必ず貫徹する(公表したか内部だけの決定かを問わない) その近頃の大きな例は 諫早干拓、八ッ場ダム、川辺川ダム、そして長崎新幹線であることはわかると思う。大牟田でも市民の要望は聞かない、その理由の大きなものが「いちいち聞いていてはキリがない、いったん要望を受け入れる前例を作ると後が大変」 そして対応した者が「自分の責任」になることを徹底して避けるからだ。其反面彼らにとっての「上部組織」からの要求には滑稽なほど大慌てで対応する。「誰それが言ってきたから}という責任逃れでもあり点数稼ぎ・ゴマ擂りでもある。産業遺産指定がそうであり荒尾のラムサール条約指定も全くその通り、「百年も立たないものは歴史のうちに入らない」と公言していた職員が今や「観光遺産」の先頭にいる。荒尾でも先だって亡くなった柳生何某が中央のTVで干潟を紹介したのを見て環境庁が荒尾に問い合わせたのがきっかけ、それまで市民の地道な運動に全く取り合わなかった役所が手の平を返した。これも責任逃れ。 しかも「観光」であって 産業遺産の何たるや、干潟が何たるやは二の次!

十数年前、 役所で目撃したのはある土木関係の部署に行った際横の棚にマーカーのダース入りの箱がなんとぎっちりと詰め込んである、とても使いきれまい!揮発性のものだから時間がたてば使い物にならない品である。これはいわゆる「予算消化」!という員数合わせ。予算主義の悪しき結果である。 

 話を戻すと、員数合わせはどこの軍隊でもある程度はあるようだが、例えばUSArmyの事例を見ると壊れた飛行機を並べて「数は揃っとります」 というような日本式の「馬鹿気た」ことは聞かない。これは単に物資の貧困と豊かさの違いではない。少し飛ぶけれど「民主主義」の浸透、成熟の差だと小生は思う。

 民主主義といえば、統一教会、神道政治連盟、日本会議など自由民主党にがっちり食い入っているのは明治の政治の復活を図っている連中で彼らの頭の中には民主主義なぞ全くなく、潰そうと計っている。

 ゴルバチョフが亡くなった。社会主義の崩壊は世間と違って小生は「ソ連官僚主義」の招いた結果だと思っています。

 先に読んだ「不死身の特攻兵・鴻上尚史」さらには「日本はなぜ、基地と原発を止められないのか・矢部宏治」  これらはぜひ読んで頂きたいですが、

 読むほどに日本の先行きに希望が無くなる。心して読んでください。

 話が雑駁になりました。もっと丁寧に紹介したいのですが、書こうとすると自分の文才・筆力のなさを感じます。もどかしい限りです。

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