閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

「すでにある型にはめて判断するな」「常識・権威を疑え」続き

2015-10-31 22:16:01 | 日記
少し前、カルタ・歴史資料館に勤務していた時、カルタの成り立ちに疑念を持って調べ始め、5年の契約が切れて辞めるのを機に纏めて報告(卒論みたい)した、それが ちょっと物議をかもしたことは以前書いた。 それで済んだつもりでいたけれど、あちこちに配ったのを目にしたある教授から「もっと調べよ」というお話で、その大学の図書館を使っていいとまで申し出があった。そうなるとわが方もやらざるを得ないではないか。一旦もういいや、と思ったことでもあって以前の様な馬力ではできないが、再度挑戦ということになりました。そこでとりあえず十冊ばかり目を通したのだけれど、隔靴掻痒というところ、こちらの目指すことについてはどれも触れておらず、探索の方向転換する必要が出たという状況になった。ところでその見直しの中で、「なんじゃこれは?!」という発見アリ。壽岳文章「日本の紙」吉川弘文館、の中に「柳河藩(佐賀県)などでは、藩主の為にいわゆる「お留紙」を調進する紙漉工が存在し、特殊な権益を与えられて抄紙に専念したために、云々」とあった。さっそく柳川古文書館に問い合わせると、「当方にはそのような記録はありません」という返事。そもそも立花家内向きの資料がほとんどで、藩の経済・経営資料は殆んど無いそうであるが、では壽岳氏は何を根拠に書いたのか。まず柳川藩を佐賀県と書いているところから怪しい。もっとも、今でも大牟田を熊本県と思っている人がいるので、中央で生活している人にとっては肥前も筑後も区別がつかないのはわからないではないが。 佐賀には名尾紙があって、鍋島藩の御用達であったことは知れている。これと混同しているか? 以前この本は見たはずなのだけれど、その時は気が付かなかったという小生も相当にドジな話ではある。しかし書いたご本人はもういないので根拠の確かめようはない。有名な学者の壽岳氏、そして天下の吉川弘文館の刊行物である。重版もあって相当多くの人がこれまでに目を通しているはずなのにこの間違い。小生のカルタの考察には、福岡県百科事典の記事で正倉院御物の九州産の紙についての記述に根拠が示されてなく今となっては確かめようがないことを書いている。 「すべての権威を疑え」という事例は結構そこいらにある物だと心しなければいけない。ついでにこれまでの 経験を言えば、いくつも出版物の「間違い」を指摘してきた。一番大きいのは岩波書店の沖縄写真集である。なかの写真に「裏焼き」を見つけ、第二版でもあったので、訂正すべきではないかとハガキで知らせたのだが、数日後編集者から電話があって、「お前はいったい何者で、この指摘はどんな根拠で、何を目的にこんなことを言ってくるのか」と自分の本のことはまず触れずにのっけからけんか腰の言いよう。詳しくは別の機会に譲るけど、岩波・朝日・NHK・電通といったところは、記者や電通マンは自分が偉いと思いこんでいて、とても尋常の対応は望めない。間違いどころか意見を言ってもてんで相手にしようとしないし高圧的開き直りという場面・ひとが多い。その彼らが世の中を引っ張っているのですからねえ。けっして彼らの「常識・権威」を信用してはいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「すでにある型にはめて判断するな」「常識・権威を疑え」続き

2015-10-31 21:47:57 | 日記
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野善彦書評 続伸

2015-10-26 21:29:25 | 日記

 網野善彦書評の中に「弥生時代の日本人と教えるのは無意味」とある。まったくその通りと思う。「国」という感覚はそう古いものではなく、ことに秀吉以降は「国」と言えば大名の領地を意味し、ほとんどの庶民・住民は「日本」という意識は全くなかった。 「蒸気船4杯で・・」以来のことでしかない。 小生の姓「古賀」が朝鮮語由来であることは常識である。今の鳥栖周辺は古来朝鮮からの人々が多く住んでいたところであることも常識。 平安期に至るまで、ズット連綿と朝鮮との交流は続いていて、それが途切れがちになるのは日本の事情より朝鮮の政治の変動・変化による方が大きいと思われる。古くは白村江の戦い」にしても いわば親戚筋のもめごとに日本に来ていた連中が加勢したとみることもできる。ズット後の例でみればアメリカと英・仏の関係に似ている。言わずと知れたことだがアメリカが日本である。英国から「出稼ぎ」に行った連中が次々と親戚・同類を呼び込んで一つの勢力になった。いわば「新田開発」の「新開」地という感覚で、別の国とは思っていなかった、そのような関係であったと小生は思う。帰化人という言葉はいつごろまでの編入者を指すのか根拠を知らないが、アイヌ・熊襲等の先住民のいるところに長年にわたって朝鮮から親戚のゐる新天地(アメリカ)という感覚で連綿と移住してきた歴史であって、「日本国民」という固有の「国民」と言えるのはずっと新しいことなのだという歴史上の事実を隠している今の歴史教育は完全に間違っているというべき。 聖徳太子という人物は存在しないというのも学会ではホボ常識にもかかわらず文部省以下保守勢力は認めようとしない。聖徳大使に比定される厩戸皇子の母親は朝鮮人であることも言おうとしない。秦、服部、日下部他朝鮮由来の姓がいくらでもあるのを なんと思っているのであろうか。 現今の政治状況に云々するつもりはないけれど、歴史をきちんと評価しないことには黙っているわけにはゆかない。 ちょっと話が飛ぶけれど、今の中東の混乱について私見。今の国境は第一次大戦後、イギリスの主導で人為的につくられた。 地図を見れば一目瞭然、まっすぐにひかれた国境線は地形はもとより住民の土俗・風俗・生産などをまったく無視したものである。これら民族の生活を無視した長年の無理が今の対立を深めた一因といえる。イスラエルの建国を含めこれらの国境を全部いったん撤回し あらたな国境を決める時期に来ていると思う。あれこれ抜きに結論だけ言えば、イスラエルはいまの「国土」を持つ意味はないと思う。そもそも今いう国家という概念はナポレオン戦争が原因で始まったことは知られている。それまでは世界中に「国家」は無かった。あったのは「領」である。いわく「ハプスブル家領」「ハノーファ家領」「ブルボン」といった「私領」であった。これを少し成り立ちは違うが日本では「国」と呼んでいた。ナポレオンに席巻されそうになって芽生えた民族意識が言語を共有する地方をまとめてナポレオン・フランスに対抗して立ち上がったのが「近代国家」の芽生えである。西欧社会ででさえたかだか二百年の歴史しか持っていない制度であることを忘れてはならないと思う。 不悉 TVや 週刊誌ばかりみていては 大事を仕損じますよ。「すでにある型にはめて世の中を理解するな」「無文字民衆の歴史を知れ」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当ですか?と思うかどうか・・。

2015-10-25 20:58:44 | 日記

少し前の新聞の書評欄に網野善彦対談集の記事があって、その見出しが「通説疑わせ、固定観念打ち砕く」とあった。まさにその通りであることは周知のこと。こんな大舞な「日本歴史全体」でそうならば地方では如何。  実にいくらでもその例はある と言ってよい。いや 地方であるからこそ学者・研究者の目や耳に届かない地方の「自慢話」レベルの「ウソ」がまかり通っているといっても過言ではないだろう。なぜなら小生がその実例をいくつも知っているからに他ならない。 例の一つに地方の地名がある。 ずっと昔、まだ字を知らない人ばかりであった頃、それでも地名はあった。それは「音」「呼び名」だったのだが、役所の帳面に記するとき 漢字を知っている役人が その「音」にあてて記録したのが始まりである。その後どんどん漢字表記の「地名」は増えていったけれど、いずれにせよその土地の地味・特性・支配者あるいは信仰などに応じ決められた「漢字表記」で、その提案・決定者たちは漢文・漢語に相当通じた人たちであったことは間違いなく、その漢字表記の決め方は、この頃のように当て字や意味不明、地域との根拠のない、商業本位といった決め方ではまず無いといってよいと思われる。 しかるに 近代になってその漢字表記が 実にいい加減であり、その結果訳のわからないおかしなことになっている例がよくみられる。大牟田の例を揚げよう。かつて「ホウガ坂」と言われていたところに「宝(ホウ)ヶ坂」としたおかげで今や「宝坂(たからざか)」と呼ぶようになってしまって「ホウ」が一体なんであったかわからなくなっている。ここは旧大牟田では珍しい「坂」のある地形で、「ホウ」とは「這う」の方言、すなはち「這って行くような坂」という意味であったのが 今や訳が分からなくなってしまっている。「宝」という有り難い字をあてたのがかえってあだになったといえる。これはほんの一例、「中友」は「中塘」すなはち干拓地名であることは明瞭、「城町」は「代」・苗代の代、住吉町は「須ノ鼻」 これらはいずれも干拓地名なのだが、今となっては一々説明をしなければならないことになってしまった。 ほかにもまだある。 三池町については「大名行列が通った」と言っている或るグループの人たちがいる。その根拠はどこにあるか と聞いても答えない。「昔の宿場町ですけん」というのだが、三池往還は「脇」往還であって、参勤交代で通る道ではない、また、三池より南に「参勤」せねばならない大名がそもそもいるのか? 肥後・細川氏は豊後・大分に領地・船場を持っていて、阿蘇を越えて府中から瀬戸内海いを大阪へ、であった。鹿児島は論外、とすれば残る大名とは誰? 島原藩が可能性はある。 長洲にあがって府本・岩本経由三池へというのだが、今のところ確証は無いし、あったとしても初期のわずかな回数であろう。親藩というべき大村を経て長崎往還をつかった記録ははっきりしている。まだいえば、薩摩の姫の上京も東隣の南関(肥後・久留米往還)を使っているのでわかるとおり、三池往還は柳川へ行く道であって、久留米府中や大宰府へ向かう道ではなかったのだ。わが町を大事にしたい気持ちはわかるけれど、歴史を都合よく曲げてしまっては大きな罪を犯すことになるのではないか。わが町大牟田ではもっと大きな間違いがまかり通っていると言わざるを得ない。 知らなければなんでもないことだろうけれど、知ってしまったのであれば黙っているわけにはいかないではないか。 小生のやっていること、抱えている課題は まさに「通説に疑念を持ち、固定観念に穴をあける」といえると思う。「三池カルタ」しかり、「ねじ」しかり、どれも「本当かな?」「なぜこうなったの、なぜ説明できないの」ということから始まっている。 近代化遺産にしても「物」にはあまり興味はない。「なぜ」ということを確認することが大切と思っている。網野氏の本はいくつか読んでいる。かつて小西甚一という国文学者も教科書にある「寝殿造り」は貴族のこうあってほしいという「モデル建築」にすぎず実際にこんな家は無かった、と言って学会を揺るがしたことがあった記憶がある。こういう「疑念をはっきりという」人が好き、もっと増えてほしいとつくづく思うものです。「常識を疑う」これがなかったら進歩は無いのだ。もっと本を読み、文献をさぐって、いろんなことを「極め」ましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログの名前を変えました。

2015-10-20 08:19:48 | 日記

また ひと月以上 間があいてしまったのだけど、9月中に書いたような覚えがあって、不思議な気がするとともに、ひょっとして ボケたのかな という危惧も 避けられない齢でもあり、実際、物忘れは確実に増えてきているし、いろんなことで仕事が遅いのを実感している。  ところで このブログの名前を変えました。前の「本棚の片隅から」は類似のものがたくさんあることが分かり、「ヒゲコガ」の方もしかり。 変えるにあたってどんなのがいいか考えました。大牟田近辺の、あるいは好みの動植物を使ったやさしいものにしようと思ったのだけれど、不知火・有明・ムツゴロウ・クヌギ・ねこ・雀・赤ケラその他どれも他にいっぱいある。一方、古本屋らしい漢語使いも いっぱいあって難しい、閑を使って「閑古」をと思ったら本物の古書店がある。 と これでも一応考えてみたけっかです。これで具合が悪ければまた変えましょう。「ひまでさびしいふるほんやのひとりごと」とひらがなで読んでいただくと それなりの感じがお分かりいただけるでしょう。   数日前・当大牟田で博物館協議会関係の 会合・研修・見学が4日間にわたってあったそうだ。そうだというのはじつは 知らなかったのです。その2日目だったか ある一団が店の前にきて何やら吾店をさして話をしている。町中見学の途中で、案内役が吾店の出版物を紹介してくれていたそうで有り難いこと、ついで見渡せば産業考古学会での顔見知りがちらほら。店の前で204号電車の説明をすると よろこばれた。中に「鉄っちゃん」も数人。 総勢4~50人 大方の人が宿泊していたそうで こういう学会のようなものが開催されると町にお金が落ちる。 世界遺産に指定され、訪れる人が増えたそうだが、駅とをバ現地をバスで運んでしまっては町中にお金は落ちない、町の様子を実感してもらうこともできない。 シャトルバスや駐車場をつくるよりも、駅からの徒歩案内や路線バスの時刻をもっとわかりやすくした方が効果的だと ずっと言い続けだが誰も話に乗ってこない。JRウオーク等は盛んで、数百人が街中をあるく。今や歩くのは一つの「売り」なのだから 大牟田でもぜひそうしてもらいたいものです。 店のいま様子は 11月3日からの天神・丸善ギャラリーの即売会の準備中。目録を出さないので 何を持っていくかの判断がかえって難しくなかなかはかどらない。   カルタに関する追加探求も速度がきわめて遅くなった。本への集中力の問題だろう。それにしても一般に知られているようで本当は???ということが実に多い。以前からの宿題の「ねじ」もそう、地名や伝承についてはこれまた・・。いずれここで取り上げることになるでしょう。 忘れるところでした 数日前、またしても新聞種。地元「有明新報」の1面トップに取り上げられました。 大牟田の文化の歴史のうずもれていたものを発見したのですが これも詳細は後程。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする